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ミステリー短編集  作者: 倉木元貴


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雨の止まない部屋 第1話

 その部屋では、雨が止まなかった。


 比喩ではない。窓の外の話でもない。室内に、雨が降っているのだ。


 ぽつ、ぽつ、と天井の中央から落ちてくる水滴は、決して勢いを増すことも、完全に止むこともない。ただ一定の間隔で、古びた木の床に暗い染みを広げ続けている。

 水滴が落ちるたび、床板がわずかに震え、湿った空気が肌に貼りつく。部屋全体が、呼吸を潜めて僕を見ているようだった。


 僕——ひいらぎ亮は、その奇妙な現象を調査するため、この古い洋館に呼ばれた。


「警察でも手に負えない、って話なんだ」


 依頼人の言葉を思い出す。電話越しの声は落ち着いていたが、どこか切迫していた。

 あの声は、助けを求めているというより、何かを“告白する直前”のような緊張を帯びていた。


 洋館は都心から少し離れた丘の上にあった。蔦に覆われた外壁、歪んだ鉄門、そして何より、異様な静けさ。人が住んでいる気配はあるのに、生きている感じがしない。

 風が吹くたび、蔦が壁を這う音がざわりと鳴り、まるで館そのものが身じろぎしているようだった。


 僕を出迎えたのは、館の主——鷹宮たかみや真一だった。


「よく来てくれました」


 四十代後半くらいの男。整った身なりだが、どこか疲れ切っている。

 目の奥に、長い夜を越えてきた人間特有の濁りがあった。


「例の“部屋”を見せていただけますか」


「ええ。ただ、その前に一つだけ」


 彼は真剣な顔で言った。


「この館では、誰も嘘をついていません。ですが、誰も“本当のこと”を話していない」


 妙な言い回しだと思ったが、深くは突っ込まなかった。

 彼の声には、真実を語ることを恐れているような、そんな影があった。


 案内されたのは、二階の奥にある小さな客間だった。


 扉を開けた瞬間、ひんやりとした湿気が肌にまとわりつく。

 空気が重い。まるで部屋そのものが、何かを抱え込んでいるような圧迫感。


 そして——


 ぽつ。


 音がした。

 天井から、一滴の水が落ちる。


 見上げると、確かにそこには何の穴も、染みもない。ただ白い天井があるだけだ。

 だが、水は落ちてくる。天井の白さが、逆に不気味さを際立たせていた。


「三日前からです」


 鷹宮が言う。


「最初は気のせいかと思いましたが、翌日も、その次の日も止まらない。業者も呼びましたが、原因は不明。配管にも問題はないそうです」


 僕は床に膝をつき、染みを観察した。水は透明で、匂いもない。普通の水にしか見えない。

 だが、床板に触れた指先に、妙な冷たさが残った。まるで“生きているもの”に触れたような感触。


「この部屋、誰か使っていましたか?」


「いえ、客間ですから、普段は空けています。ただ……」


「ただ?」


「三日前、この部屋で“あるもの”が見つかりました」


 彼は一瞬ためらった。喉が上下し、言葉を押し出すように続けた。


「血痕です」


 僕は顔を上げた。

 部屋の湿気が、急に冷たくなった気がした。


「ですが、誰も怪我をしていない。館の者全員に確認しました。外部から侵入した形跡もない。なのに、床にだけ血が落ちていたんです」


「その血は?」


「すぐに拭き取りました。……ですが、その翌日から、雨が降り始めた」


 嫌な予感がした。

 血と水。拭き取られた痕跡と、消えない現象。

 何かが“残っている”。


 僕は立ち上がり、部屋全体を見渡す。家具は最小限。ベッド、サイドテーブル、小さなクローゼット。

 どれも古いが、丁寧に手入れされている。だからこそ、異物があればすぐに分かる。


 違和感は、すぐに見つかった。


「この部屋、音が変ですね」


「音?」


「ええ。水滴の音が、妙に響く」


 普通、木の床ならもう少し柔らかい音になるはずだ。だが、この部屋では、水滴が落ちるたびに、どこか空洞を叩くような響きがする。

 その響きは、まるで床下に“呼吸する空間”があるかのようだった。


 僕は床を軽く叩いた。


 コン、コン。


 やはり、どこか空洞がある。


「床下に何かありますね」


 鷹宮の表情が強張った。

 その反応は、驚きというより“思い当たる節がある者”のそれだった。


「……そんなはずは」


「開けてみましょう」


 館の使用人を呼び、工具を持ってきてもらう。数分後、床板の一部が外された。


 中を覗き込んだ瞬間、全員が息を呑んだ。


 そこには——白い布に包まれた“何か”があった。


 慎重に引き上げる。布は湿っている。まるで、ずっと水に晒されていたかのように。

 布越しに伝わる冷たさが、手のひらを刺した。


 僕は布をめくった。


 中から現れたのは——人の腕だった。


 腐敗は進んでいない。切断面も比較的新しい。三日前という話と一致する。

 だが、腕の皮膚は異様にふやけ、白く膨張していた。まるで“水に溶けかけている”ように。


「誰のものだ……」


 鷹宮が震える声で呟く。


 僕は静かに言った。


「問題はそこじゃありません。この腕、“濡れすぎている”」


「濡れている……?」


「ええ。普通、床下に隠しただけなら、ここまで水を含むことはない。まるで——」


 僕は天井を見上げた。


「この雨で、ずっと濡らされていたみたいだ」


 沈黙が落ちる。


 ぽつ。


 また一滴。


 その瞬間、僕は気づいた。

 この雨——落ちている場所が、微妙にズレている。


 さっきより、ほんの数センチ、位置が違う。


 僕は床を見た。染みは一点ではなく、わずかに広がっている。


「……移動している?」


 あり得ないはずの考えが頭をよぎる。

 だが、事実として、水滴の落下位置は変化している。


 まるで——“何かを探している”かのように。

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