海沿いの旅館 最終話
夜の海は、無数の灯りに包まれていた。
海灯祭。
町中の人々が、願いを込めた灯りを海へ流す夜。
水面に浮かぶ光が、ゆらゆらと揺れ、波に合わせて静かに形を変えていく。
まるで星がそのまま海に落ちてきたみたいだった。
朱音は、その光景を少し離れた場所から見ていた。
潮風が頬を撫で、灯りの匂いと海の匂いが混ざり合う。
胸の奥が、静かに満ちている。
(きれい……)
そう思うと同時に、どこか少しだけ寂しさが胸をかすめた。
何かが終わったような、そんな感覚。
――あの部屋の灯りは、もう点かない。
けれど不思議と、悲しくはなかった。
ちゃんと、受け取ったから。
あの場所に残されていた想いも、時間も。
そして、自分がずっと抱えていた後悔も。
「……いた」
後ろから声がして、振り返る。
陸だった。
人混みを抜けて、まっすぐこちらに歩いてくる。
提灯の光が彼の横顔を照らし、その影が揺れるたびに、胸が少しだけ高鳴る。
「探した?」
「まあ、ちょっと」
陸は軽く息を整えながら、朱音の隣に立つ。
肩が触れるか触れないかの距離。
その近さが、自然に感じられた。
二人は同じ方向を見る。
海に浮かぶ灯り。
波の音。
遠くで聞こえる祭りの賑わい。
しばらく、何も言わない時間が続く。
けれど、それが心地よかった。
「……終わったな」
陸がぽつりと呟く。
「うん」
朱音は頷く。
短い返事。
でも、その中にいろんなものが詰まっている。
過去のこと。
あの写真。
言えなかった言葉。
ずっと胸に残っていた痛み。
全部。
風が吹く。
灯りが揺れる。
朱音の髪がふわりと舞い、陸の肩に触れた。
朱音は、そっと口を開いた。
「私ね」
「うん」
「ちゃんと笑えるようになりたい」
自分でも驚くくらい、素直な言葉だった。
胸の奥にあったものが、ようやく形になって出てきたような感覚。
「昔みたいに……じゃなくて、今の私で」
陸は何も言わずに聞いている。
その沈黙は、拒絶ではなく、受け止めるための静けさだった。
「逃げないで、ちゃんと向き合って……それで笑えたら、いいなって」
少しだけ声が震える。
でも、止めない。
今は、言葉にしなきゃいけない気がした。
「だから──」
そこで一度、息を吸う。
心臓が大きく鳴る。
灯りの揺れが、胸の奥まで届くようだった。
「これからの時間、陸と一緒にいたい」
言ってしまった。
言葉が、夜の空気に溶けていく。
海の音が遠くなる。
灯りの揺れが、少しだけ滲んで見えた。
一瞬だけ、時間が止まったように感じた。
陸は驚いたように目を見開き、それからゆっくりと視線を落とす。
考えているようだった。
その時間が、少しだけ長く感じる。
胸の奥がきゅっと締めつけられる。
やがて、陸が小さく息を吐いた。
そして──
「……俺も」
顔を上げる。
まっすぐな目。
「同じこと、思ってた」
朱音の心臓が跳ねる。
胸の奥が熱くなる。
「ちゃんと見てたい。朱音のこと」
静かな声。
でも、確かに届く。
「カメラ越しじゃなくて」
その言葉に、朱音は少し笑った。
涙がこぼれそうなのに、笑顔が自然に浮かんだ。
「うん」
無理じゃなく。
作ったものでもなく。
ただ、そこにある笑顔。
陸が、そっと手を差し出す。
少しだけ迷ってから、朱音はその手を取った。
指先が触れる。
温かい。
確かに、ここにある温度。
海の灯りが揺れる。
風が、二人の間を優しく通り抜ける。
遠くで、玲央の声が聞こえた。
「おーい! 二人ともー!」
振り向くと、人混みの向こうで大きく手を振っている。
「置いてくぞー!」
その明るい声に、二人は顔を見合わせる。
自然と笑みがこぼれた。
「行く?」
「うん」
手をつないだまま、歩き出す。
砂浜を踏みしめる音。
波の音。
灯りの揺れる光。
すべてが、やわらかく重なっていく。
朱音はふと思う。
(あの部屋の灯りは消えたけど)
胸の奥には、新しい灯りがちゃんと灯っている。
それはきっと、消えない。
これから先も、ずっと。
隣を歩く陸の手を、少しだけ強く握る。
陸も、応えるように握り返す。
海の上に浮かぶ灯りが、静かに、ゆっくりと遠ざかっていく。
そして──
新しい物語が、ここから始まっていく。
《エピローグ》
海灯祭が終わった翌朝、町はいつもより静かだった。
昨夜の賑わいが嘘のように、潮風だけがゆっくりと通り抜けていく。
朱音は、学校へ向かう坂道の途中で立ち止まった。
海の方を見ると、まだいくつかの灯りが遠くに漂っている。
夜の名残のように、淡く揺れていた。
(消えないんだな……)
灯りは海に流れていくけれど、願いはどこかに残る。
そんな気がした。
鞄の中には、あの写真が入っている。
三人で笑っている、10年前の一枚。
そして、昨夜の自分の笑顔も──
ようやく、その隣に並べる気がしていた。
「おはよ、朱音」
振り返ると、陸がいた。
いつもより少しだけ柔らかい表情。
それだけで胸が温かくなる。
「おはよう」
自然に返せた。
その自然さが、嬉しかった。
二人で歩き出す。
昨日までとは違う距離感。
けれど、無理のない近さ。
「……眠れた?」
「うん。なんか、すっきりした」
陸は小さく笑う。
「俺も。なんか、全部ちゃんと終わったって感じ」
その言葉に、朱音も頷いた。
過去は消えない。
でも、もう痛みだけじゃない。
あの部屋の灯りが消えた夜、新しい灯りが胸の奥に灯った。それは、誰かに残されたものではなく、自分で選んだ、自分の時間の始まりだった。
「そういえばさ」
陸がふと思い出したように言う。
「玲央、今日の放課後、こがわ亭手伝いに来いってさ。“二人とも”って」
「え、なんで私も?」
「さあ。でも、なんか理由ありそうだった」
朱音は苦笑する。
「絶対、からかわれるじゃん」
「まあ、覚悟しとけよ」
陸が軽く肩をすくめる。
その仕草が、なんだか懐かしくて、そして新しく感じられた。
学校の門が見えてくる。
朝の光が差し込み、校舎の窓がきらりと光る。
朱音はふと、昨日の海を思い出した。
揺れる灯り。
風の音。
陸の手の温度。
(あの灯りは消えたけど……)
胸の奥に残った灯りは、今日も静かに、確かに灯っている。
「行こっか」
「うん」
二人は並んで校舎へ向かう。
足取りは軽く、昨日までより少しだけ前を向いていた。
海の灯りは遠ざかっていく。
けれど、新しい物語は、ここから続いていく。
静かで、あたたかい朝だった。
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