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ミステリー短編集  作者: 倉木元貴


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海沿いの旅館 第7話

 海灯祭の前夜。

 町は、いつもより少しだけ明るかった。


 通りには赤い提灯が等間隔に並び、風が吹くたびにゆらりと揺れて、まるで海へ続く道を導く灯りの列のようだった。

 坂道には灯籠が置かれ、まだ火は入っていないのに、そこに立つだけで祭りの気配が漂っていた。


 けれど、〈こがわ亭〉の中は変わらず静かだった。

 外のざわめきが嘘のように、古い木造の建物は夜の気配を深く吸い込んでいる。


「……親父、今夜は本館の方だ。戻ってこない」


 玲央が小声で言う。

 その声は、廊下の静けさに溶けていった。


 三人は再び、あの部屋の前に立っていた。

 昨日と同じ扉。

 同じ鍵穴。

 けれど、感じる空気は少し違う。


(もう、怖くない)


 朱音はそう思っていた。

 昨日、この部屋に触れたときに感じた“気配”は、恐怖ではなく、誰かの想いの残り香だった。


 陸が鍵を差し込み、ゆっくりと回す。

 金属が擦れる音が、静かな廊下に響く。


 ギィ、と扉が開き、昨日と同じ光景が現れる。


 薄暗い部屋。

 半分閉じられたカーテンから差し込む月明かり。

 古いベッドと机。

 そして、中央に置かれた三脚のカメラ。


 けれど、どこか“終わりに近づいている”ような静けさがあった。

 まるで、この部屋自身が、長く抱えていた秘密をようやく手放そうとしているように。


 三人は中に入り、扉を閉めた。


「……昨日の続きだな」


 玲央が棚の前に立つ。

 箱の中には、まだ見ていないフィルムが残っていた。


 陸がそれを手に取る。

 指先がわずかに震えているのが、朱音には分かった。


「これ……現像すれば分かるはずだ」


「でも、ここじゃ……」


 朱音が言いかけると、玲央が苦笑した。


「簡易だけど、できるよ。昔、親父に教わったことある」


 意外な言葉に、陸が少し驚いた顔をする。


「……やれるのか」


「完璧じゃないけどな」


 玲央は照れくさそうに肩をすくめた。

 その仕草が、緊張を少しだけ和らげる。


 三人で簡易的な現像の準備をする。

 部屋の灯りを落とし、懐中電灯に布をかぶせて弱い光だけを残す。薬品の匂いがほのかに漂い、静かな空気の中で、三人の呼吸だけが聞こえる。


 暗い部屋での作業は、まるで時間がゆっくりと流れているようだった。

 朱音は、胸の奥の緊張と期待が混ざり合うのを感じていた。


 やがて──


「……出てきた」


 玲央の声が、静けさを破る。


 一枚の写真が、液の中でゆっくりと像を結んでいく。

 白い紙の上に、少しずつ輪郭が浮かび上がる瞬間は、まるで過去が今へと戻ってくるようだった。


 朱音は息を止めた。


 そこに写っていたのは──旅館の部屋の中。そして、カメラの前に立つ一人の女性。


 優しく微笑んでいる。

 その笑顔は、どこか懐かしく、見ているだけで胸が温かくなるような柔らかさがあった。


 陸が小さく呟く。


「……ばあちゃん」


 その声は震えていた。

 写真の中の女性は、まるで“誰かに向けて話しかけている”ようだった。

 手元には、小さなメモ帳がある。


 次の瞬間、朱音は気づく。

 写真の端に、もう一枚、紙が写り込んでいる。


 玲央がそれを取り出した。


「……これか」


 少し黄ばんだ紙。

 長い年月を経た紙特有の、乾いた手触り。


 陸がそれを受け取り、ゆっくりと読み上げる。



『もし、この部屋を開けてくれた人がいるなら』

『ありがとう』

『このカメラは、毎年この日に動くようにしました』

『大切な時間を、忘れないために』




 朱音の胸が、じんわりと温かくなる。

 言葉の一つひとつが、静かに心に染み込んでいく。


 陸の声が、少しだけ震える。



『三人の笑顔を見て、私は思いました』

『人の想いは、消えないのだと』

『たとえ離れても、言葉にできなくても』



 部屋の空気が、深く静まる。

 まるで、この言葉を受け止めるために

 世界が一瞬だけ動きを止めたようだった。



『だから、残したかった』

『灯りのように、思い出が続くように』



 陸は言葉を止めた。

 最後の一行を、ゆっくりと読む。



『どうか、これからの時間を大切に』



 部屋の中に、深い静けさが広がる。

 誰もすぐには話せなかった。


 朱音は、胸の奥がじんわりと熱くなるのを感じていた。

 過去の痛みも、後悔も、すべてがこの言葉に包まれていくようだった。


 やがて、玲央がぽつりと言う。


「……親父、これ知ってたんだな」


 朱音が顔を上げる。


「え?」


「この部屋、ずっとそのままにしてた理由」


 玲央は少しだけ笑った。


「守ってたんだよ。この人の“想い”をさ」


 観光のネタにするでもなく、壊すでもなく。

 ただ、静かに残していた。


 朱音は部屋を見渡す。

 古びた家具。

 カメラ。

 そして、残された灯りの仕組み。


 すべてが、優しい意味を持っていた。


 陸が小さく息を吐く。


「……これで、分かった」


 その顔は、どこか軽くなっている。


「探してたものも、全部」


 朱音はその横顔を見る。

 もう、あの苦しそうな影はなかった。


「灯り……どうする?」


 朱音が尋ねると、

 陸は少し考えてから答えた。


「止めよう」


「……いいの?」


「うん」


 陸は静かに頷く。


「もう、ちゃんと受け取ったから」


 その言葉に、朱音の胸があたたかくなる。

 過去は、消えない。

 でも、そこに縛られる必要もない。


 玲央が大きく伸びをする。


「よし、決まりだな」


 少しだけ明るい声。


「明日で終わり。海灯祭、ちゃんと楽しもうぜ」


 その言葉に、二人も頷く。


 部屋を出ると、夜風が頬を撫でた。

 遠くで、祭りの準備の音が聞こえる。

 灯りが揺れている。


 朱音は空を見上げた。


(終わるんだ)


 過去も、迷いも。


 そして──


(始まる)


 新しい時間が。


 隣を見ると、陸がいた。

 ほんの少し、距離が近い。

 けれど、それが自然に感じられた。


 明日、すべてが変わる。


 その予感を胸に、三人は静かな夜を歩き出した。

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