海沿いの旅館 第6話
その夜、朱音はなかなか眠れなかった。
机の上には、あの写真。
三人で笑っている、10年前の一枚。
カーテンの隙間から月明かりが差し込み、写真の表面に淡い光が揺れている。
静かな部屋の中で、その一枚だけが時間を持っているようだった。
写真の中の自分は、今よりずっと無邪気に笑っていた。
肩の力が抜けていて、何も疑っていない笑顔。
(こんなふうに……笑ってたんだ)
指先でそっとなぞる。
紙の感触が、妙に冷たく感じられる。
隣にいるのは陸。そして、その向こうに──親友の姿。
胸の奥に、ゆっくりと痛みが広がる。
思い出の輪郭が、光に照らされて浮かび上がるほどに、その痛みは静かに深く沈んでいく。
(どうして、あのあと……)
思い出そうとすると、いつもそこで止まってしまう。
霧のように、手を伸ばせば消えてしまう。
転校。突然の別れ。
理由も、ちゃんと聞けないまま終わった関係。
ただ一つ覚えているのは、“ちゃんと話せなかった”という後悔だけ。
「……朱音」
小さく、自分の名前を呼ぶ。
声に出すと、胸の奥の重さが少しだけ形を持つ。
あの日、もしもう一度戻れるなら──何を言うだろう。
考えても、答えは出ない。
ただ、胸の奥に残っていた“重さ”が、少しずつ輪郭を持ちはじめていた。
月明かりが揺れ、写真の三人が微笑む。
その笑顔が、眠れない夜を静かに照らしていた。
♢♢♢
翌日の放課後。
朱音は写真を持って、海辺へ向かった。
潮の匂いが風に混じり、制服の裾を揺らす。
空はまだ明るいのに、どこか夕暮れの気配が漂っていた。
約束はしていない。でも、きっといると思った。
案の定、陸はそこにいた。
波打ち際に立ち、カメラを構えている。
けれど、シャッターは切っていなかった。
ただ、海を見つめていた。
その横顔は、どこか遠くを思い出しているようだった。
「……陸」
声をかけると、ゆっくり振り向く。
少し驚いた顔。
でもすぐに、柔らかくなる。
その変化が、朱音の胸に静かに触れた。
「朱音」
その呼び方が、どこか自然になっていることに気づく。
距離が、少しずつ変わっている。
朱音は一歩近づいて、写真を差し出した。
「これ……持ってきた」
陸はそれを受け取り、静かに見つめる。
風が二人の間を通り抜け、写真の端を揺らした。
しばらく、何も言わない。
波の音だけが、間を埋める。
やがて、陸が口を開いた。
「……この日のこと、覚えてる?」
朱音は少し考えてから、首を横に振る。
「ちゃんとは……」
「そっか」
陸は少しだけ笑った。
その笑みは、懐かしさと寂しさが混じったような色をしていた。
「ばあちゃんがさ、急に“写真撮るよ”って言い出して」
「うん」
「で、無理やり三人並ばされて」
その光景が、ぼんやりと浮かぶ。
夕暮れ。灯りの準備。
賑やかな音。
潮風に混じる屋台の匂い。
そして──
「……そのあと」
朱音は小さく呟く。
「私、あの子とケンカした」
陸が顔を上げる。
「え?」
「覚えてる。全部じゃないけど……思い出した」
胸が少し痛む。
でも、もう目を逸らさない。
「些細なことだったと思う。たぶん、本当にどうでもいいこと」
声が、少しだけ震える。
「でも、私……意地張っちゃって。謝らないまま、その日が終わって」
波が寄せて、引く。
そのリズムが、朱音の言葉を静かに受け止める。
「次の日、学校に来なくて。そのまま、転校って聞いて」
朱音はぎゅっと拳を握る。
「……最後に、ちゃんと話せなかった」
静かな告白だった。
けれど、それはずっと胸にしまっていたもの。
陸は何も言わずに聞いていた。
その沈黙は、拒絶ではなく、受け止めるための沈黙だった。
やがて、ゆっくり口を開く。
「……俺、知ってたよ」
「え?」
「転校の理由」
朱音の心臓が跳ねる。
「どういうこと……?」
陸は少しだけ迷ったあと、言った。
「家庭の事情だった。急に決まったらしい」
「……」
「で、その子……前の日、ずっと朱音のこと気にしてた」
言葉が、胸に落ちる。
波の音が遠くなる。
「“ケンカしたままで終わるのやだ”って言ってた」
朱音の視界が揺れる。
涙が、こぼれそうになる。
「でも結局、言えなかったみたいで」
陸は写真を見つめる。
「だから、あの日の写真……すごく大事にしてた」
風が強く吹いた。
朱音の髪が揺れ、涙が頬を伝う。
(そっか……)
自分だけじゃなかった。
相手も同じだった。
言えなかった。
伝えられなかった。
ただ、それだけ。
なのに──それが、こんなにも長く残ってしまった。
朱音は涙を拭い、少し笑う。
「……なんだ。お互い様じゃん」
陸も、少しだけ笑った。
「そうだな」
沈黙が流れた。でも、苦しくない。
むしろ、どこか軽くなっていた。
朱音は空を見上げる。
夕焼けが広がっている。
海面に反射した光が揺れ、世界がゆっくりと色を変えていく。
「……私、ちゃんと前に進みたい」
「うん」
「もう、あのときみたいに……言えないまま終わるの、やだから」
その言葉に、陸はまっすぐ頷いた。
「俺も」
視線が重なる。逃げない目。
「だからさ」
陸が静かに言う。
「明日、全部終わらせよう」
「……うん」
海灯祭の夜。
灯りが揺れるその中で、すべてに答えを出す。
過去にも、今にも。
朱音は小さく息を吸った。
胸の奥に、確かな熱が灯っている。
それはもう、消えない灯りだった。
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