海沿いの旅館 第5話
その夜、町はどこか落ち着かない空気に包まれていた。
海灯祭を明日に控え、準備の明かりがあちこちに揺れている。
遠くで誰かが木槌を打つ音がして、潮の匂いが風に混じる。
けれど〈こがわ亭〉の裏手は、まるで別世界のように静かだった。
ざらついた砂利の上に、夜の湿気が薄く降りている。
「……ほんとにやるんだな」
玲央が呟いた声は、夜気に吸い込まれるように小さかった。
懐中電灯の光が揺れ、足元の影が不安定に伸びる。
「ここから入れる」
玲央が指さしたのは、古い木の裏口。
長い年月を吸い込んだような木肌は、触れれば湿り気を帯びていそうだ。
鍵はかかっていない――その事実が、かえって胸をざわつかせる。
朱音は無意識に息を飲んだ。
胸の奥が、少しだけ速く脈打つ。
(戻ってはいけない場所に、足を踏み入れるような……)
陸は何も言わず、静かに扉へ手を伸ばした。
ギィ、と軋む音。
暗闇が、ゆっくりと口を開ける。
その向こうは、外よりも深い闇だった。
三人は顔を見合わせ、小さく頷き合って中へ入った。
館内は、息を潜めているかのように静まり返っていた。
廊下の木の床が、わずかにきしむ。その音が、やけに大きく響く。
海風がどこかの隙間から入り込んでいるのか、空気はひんやりとして、古い建物特有の匂いが鼻をかすめた。
「……二階、奥の部屋だ」
玲央が先頭に立つ。
懐中電灯の光が壁に長い影を作り、その影が三人の緊張をさらに引き伸ばす。
階段を上がるたび、心臓の音が少しずつ大きくなる。朱音は自分の鼓動が、耳の奥で跳ねるのを感じていた。
(ここに……あるんだ)
あの灯りの理由が。陸の探しているものが。そして――自分の過去に繋がる何かも。
廊下の突き当たり。問題の部屋の前に立つ。
古い木の扉。
錆びた鍵穴。
触れれば、粉のように錆が落ちそうだ。
玲央が小さく息を吐く。
「……ほんとに、開けるぞ」
陸がポケットからキーホルダーを取り出した。
Misaki Haru――その刻印が、月明かりに淡く光る。
そこに、小さな鍵がついている。
「これで……合うはずだ」
差し込む。
金属が擦れる音。
一瞬の沈黙。
カチ、と乾いた音。
「……開いた」
玲央が目を見開く。
陸はゆっくりと扉を押した。
ギィ、と重たい音を立てて、部屋が静かに姿を現す。
中は、時間が止まったようだった。
薄暗い室内。
カーテンは半分閉じられ、月明かりが細い帯となって床に落ちている。
古いベッド。
小さな机。
壁にかかった、色褪せた絵。どれも、長い間誰にも触れられていない気配をまとっていた。
そして――
「……あれ」
朱音が小さく声を漏らす。
部屋の中央に、一台の古いフィルムカメラが置かれていた。三脚に固定され、まるで“誰か”を待ち続けているように、じっと佇んでいる。
陸がゆっくり近づく。
その背中に、朱音は言いようのない緊張を感じた。
「……これ」
陸が手に取り、裏側を見る。
「タイマー……」
玲央が覗き込む。
「自動撮影、か?」
陸は頷く。
「しかも、かなり古い型だ。でも……改造されてる」
「改造?」
「一定の時間になると、電源が入ってシャッターが切れる仕組みになってる」
朱音は息を呑む。
「じゃあ……灯りは」
「このカメラの電源と連動してるんだと思う。撮影のために、部屋の明かりが点くように」
つまり――
「毎晩じゃない。“毎年、この時期”だけ動いてる」
陸の声が、静かに震える。
「海灯祭の前夜に合わせて」
玲央が思わず呟く。
「……なんだよ、それ」
誰かが、意図的に残した仕組み。“その日”にだけ、動くように。
朱音は部屋を見回す。
どこか優しく、静かな空気が漂っている。
怖さは、もうほとんどなかった。
代わりにあるのは、誰かの想いが残っている場所という感覚。
「……あっ」
玲央が棚の方で声を上げた。
「おい、これ」
振り向くと、古びた木の棚の奥から、小さな箱を取り出している。
埃をかぶった、薄い箱。
陸がそれを受け取り、ゆっくり開ける。
中には――
「フィルム……」
何本かの未現像フィルムと、一枚の封筒。
陸の手が、ほんの少し震える。
封筒を開く。
中には、現像された写真が一枚と、小さなメモ。
朱音は息を止めた。
写真に写っていたのは──三人の中学生。
笑っている。海灯祭の灯りを背景に。
自分と、陸と──そして、あの親友。
「……これ」
声が出ない。
胸がいっぱいになる。
喉の奥が熱くなる。
陸も、何も言えずにその写真を見つめている。
その横顔は、懐かしさと痛みが入り混じったような表情だった。
玲央は黙って、二人の様子を見ていた。
彼の目にも、わずかな驚きと、触れてはいけないものに触れたような慎重さが宿っている。
やがて、陸がメモを開く。
そこには、柔らかい字でこう書かれていた。
『三人の笑顔が、私の灯りです』
静かな沈黙が、部屋を満たす。
風も音も、すべてが遠くなる。
朱音の目に、涙がにじむ。あの日、止まっていた時間が、
ゆっくりと動き出す。
陸がぽつりと呟く。
「……ばあちゃん、ずっと残してたんだ」
その声は、少しだけ優しかった。
朱音は写真を見つめながら思う。
(私たち、ちゃんと笑ってたんだ)
あのとき。
確かに、ここにいた。
失われたと思っていた時間が、形として残っていた。
そして、それを――誰かが大切に守ってくれていた。
その事実が、胸の奥をじんわりと温めていく。
けれど――まだ、終わりじゃない。
この写真に写っていない“その先”がある。
朱音は、ゆっくりと顔を上げた。
「……もう一つ、あるよね」
陸が頷く。
「うん」
「この写真のあと、どうなったのか」
三人の間に、静かな決意が生まれる。
夜はまだ終わらない。
そして、明日は海灯祭。
すべての答えが、その光の中で見えてくるはずだった。
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