海沿いの旅館 第4話
週明けの教室は、どこか落ち着かない空気に満ちていた。
窓の外では、海灯祭の準備が少しずつ進んでいる。
色とりどりの紙灯りが、風に揺れていた。
朱音は頬杖をつきながら、ぼんやりとそれを見ていた。
視線は外に向いているのに、意識はそこにない。
胸の奥に沈んだままの金曜の夜の記憶が、波のように寄せては返す。
(あの部屋、開けるって……本気なのかな)
陸のまっすぐな声。玲央の戸惑った顔。
そして、自分は――何も言えなかった。
その沈黙が、今になって重くのしかかる。
「なに、ぼーっとしてんの」
横から声がして、朱音は顔を上げる。
玲央が机に肘をついて、こちらを覗き込んでいた。いつもより少しだけ、表情が柔らかい。
「……別に」
「嘘つけ。分かりやすすぎ」
玲央は苦笑して、椅子を引いて座る。
その動作が妙に自然で、朱音は少しだけ救われる。
「陸のことだろ」
図星を突かれて、朱音は言葉を詰まらせた。
胸の奥が、ちくりと痛む。
「……なんでそうなるの」
「見てりゃ分かるって。あいつ、お前の前だとちょっと変だし」
「変って……」
「なんつーか、無理してる感じ?」
玲央は肩をすくめる。
その言葉に、朱音の胸が小さく引っかかった。
(無理してる……?)
思い返す。
図書室での再会。
旅館の前での横顔。
キーホルダーを見たときの、あの表情。
確かに陸は、何かを抱えているように見えた。
でも、それが何なのか分からない。
分からないことが、こんなにも不安を生むなんて思わなかった。
「……玲央はさ」
朱音は少し迷ってから口を開く。
声がわずかに震えているのを、自分でも感じた。
「怖くないの? あの部屋」
玲央は一瞬、視線を逸らした。
その仕草が、答えよりも雄弁だった。
「……正直に言うと、ちょっとな」
珍しく弱い声だった。
朱音は驚き、同時に胸が締めつけられる。
「親父があんなに隠そうとするってことはさ、やっぱり、なんかあるんだよ。でも……」
「でも?」
「知らないままなのも、気持ち悪いだろ」
玲央は笑おうとして、少しだけ失敗した。
その不器用な笑顔に、朱音は気づく。
(玲央も……怖いんだ)
家のこと。旅館のこと。
そして、自分だけが知らされていない何か。
(みんな、同じなんだ)
言えないことを抱えて、分からないまま前に進もうとしている。
そのとき、教室の後ろの扉が開いた。
陸が入ってくる。
一瞬、視線が合う。
けれど陸はすぐに逸らして、自分の席に向かった。
その小さな動きが、朱音の胸にじわりと広がる。
(やっぱり、避けられてる……?)
そう思った瞬間、胸の奥がきゅっと締めつけられた。
息が浅くなる。
机の木目が、妙に鮮明に見えた。
♢♢♢
放課後。朱音は図書室にいた。
けれど今日は本に集中できない。
ページをめくっても、文字が頭に入ってこない。
静かな空間が、逆に心のざわつきを際立たせる。
(……話したいのに)
どうして、こんなにうまくいかないんだろう。
中学の頃も、そうだった。
ほんの少しのすれ違い。
それだけだったはずなのに、気づけば距離ができて、言葉をかけるタイミングを失って――そのまま、終わってしまった。
(また、同じことになるの……?)
不安が胸に広がる。喉の奥が熱くなる。
そのとき、静かにドアが開いた。
振り向くと、陸が立っていた。
「……朱音」
名前を呼ばれて、心臓が跳ねる。
その一言だけで、胸の奥がざわめいた。
陸は少しだけ迷ったあと、近づいてきた。
「ちょっと、いい?」
朱音は黙って頷く。
声を出したら、震えがばれてしまいそうだった。
図書室の奥。
人のいない窓際の席に並んで座る。
しばらく沈黙が続いた。
外では、風がカーテンを揺らしている。
その揺れが、二人の間の緊張をやわらげるようだった。
「……あのさ」
先に口を開いたのは、陸だった。
「金曜のこと。……急に言って、ごめん」
「え?」
「部屋、開けるってやつ」
ああ、そのことか。朱音は小さく首を振る。
「ううん。びっくりしたけど……でも」
言葉を探す。
胸の奥が熱くなる。
「……知りたいって気持ち、分かるから」
陸は少しだけ目を細めた。
その表情が、どこかほっとしたように見えた。
「……そっか」
短い返事。
けれど、その声は少しだけ柔らかかった。
沈黙が、また落ちる。
けれど今度は、少しだけ心地よい。
朱音は思い切って口を開いた。
「陸ってさ」
「うん」
「中学のとき、なんで急に話さなくなったの?」
言ってしまってから、心臓が大きく鳴る。
でも、もう逃げたくなかった。
陸は驚いたように目を見開き、それからゆっくりと視線を落とした。
長い沈黙。
やがて、ぽつりと呟く。
「……話しかけられなかったんだよ」
「え……?」
「朱音、あのとき……泣いてたから」
胸が、止まる。
「親友が転校するって聞いた日。廊下で一人で泣いてるの、見た」
朱音は息を呑む。
そんなところ、見られていたなんて思わなかった。
「なんて言えばいいか分からなくてさ。
変に声かけたら、余計傷つける気がして」
陸は苦笑する。
「……で、そのままタイミング逃して、今」
静かな告白だった。
けれど、それは朱音の心にまっすぐ届いた。
(そうだったんだ……)
避けられていたわけじゃない。
ただ、互いに踏み出せなかっただけ。
それだけのことが、こんなにも長く続いてしまった。
朱音は小さく息を吐く。
「……私も、話しかければよかった」
「うん」
「でも、怖くて」
陸は頷く。
「分かる」
その一言で、胸の奥の固いものが少し溶けた気がした。けれど今度は、あたたかい。
やがて陸が顔を上げる。
「……だからさ」
「うん?」
「今度は、ちゃんと知りたいんだ」
その目は、まっすぐだった。
「ばあちゃんのことも。あの部屋のことも。……朱音のことも」
最後の一言に、朱音の心臓が強く鳴る。
言葉が出てこない。
ただ、頷くことしかできなかった。
そのとき、外から玲央の声が響いた。
「おーい! 二人とも!」
窓の外。校庭から手を振っている。
「今夜、行くぞ! 例の部屋!」
朱音と陸は顔を見合わせる。
もう、戻れない。
三人の物語は、確実に“その先”へ進もうとしていた。
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