海沿いの旅館 第3話
次の日の放課後、朱音はひとりで〈こがわ亭〉の前に立っていた。
夕方の光はまだ柔らかいのに、旅館の前だけはどこか影が濃い。
昨日の出来事が、どうしても頭から離れなかった。
あの灯り。陸の表情。玲央の言葉。
(……三崎のおばあちゃん)
胸の奥で、細い糸のような違和感がひっかかっている。
それは痛みではなく、むしろ“呼ばれている”ような感覚だった。
触れれば思い出せそうなのに、指先がすり抜けていくような曖昧な記憶。
思い出せないこと自体が、逆に不安を膨らませる。
海から吹き上げる風が強く、旅館の古い看板がかすかに軋んだ。
潮の匂いが濃く、夕暮れ前の空気はどこか湿っている。
朱音は無意識に腕を抱いた。寒さではなく、胸の奥のざわつきを押さえ込むように。
そのとき、足元で小さな音がした。
コツ、と硬いものを蹴る感触。
「……?」
朱音はしゃがみ込み、砂利の隙間に埋もれていたそれを拾い上げた。
古びた金属のキーホルダー。
塩風に晒され、縁が少し白く腐食している。
小さな楕円のプレートには、英字が刻まれていた。
―― Misaki Haru
(……三崎、春……?)
胸の奥が、きゅっと縮む。
知らない名前のはずなのに、どこかで聞いたことがあるような、そんな錯覚。
“思い出せないのに懐かしい”という矛盾が、朱音の呼吸を浅くした。
名前を読み取った瞬間、背後から砂利を踏む足音が近づいてきた。
「朱音?」
振り向くと、陸が立っていた。
今日もカメラバッグを肩にかけている。
風に髪が揺れ、どこか昨日より疲れたような影が目元に落ちていた。
その姿を見た瞬間、朱音の胸のざわつきはさらに強くなる。
理由は分からない。ただ、陸がこの場所にいることが“必然”のように思えてしまった。
「どうしたの、こんなとこで」
「……これ、落ちてた」
朱音はキーホルダーを差し出す。
自分の声が少し震えていることに気づき、内心で驚いた。
陸の視線がそれに触れた瞬間、ぴたりと動きが止まった。
ほんの一瞬。けれど、空気が変わったのがはっきり分かる。
潮風の音さえ遠のいたように感じた。
(……やっぱり、ただの落とし物じゃない)
朱音は息を呑んだ。
「……それ」
陸はゆっくり手を伸ばし、キーホルダーを受け取った。
指先が、わずかに震えている。
朱音はその震えに気づき、胸の奥がひゅっと縮む。
(陸が……こんなふうになるなんて)
驚きと、言葉にできない痛みが混ざる。
「……ばあちゃんの、名前だ」
やはりそうだった。
けれど、実際に口にされると、胸が少しだけ重くなる。
陸の横顔は、懐かしさと痛みが混ざったような表情をしていた。
(陸にとって、この旅館は……ただの場所じゃない)
朱音は、胸の奥がじんわりと熱くなるのを感じた。
自分が知らない陸の過去に触れたような気がして、少し怖かった。
「ここで落としたのかな……。いや、そんなはずないか」
「どういうこと?」
朱音が尋ねると、陸は少し迷ったように目を伏せた。
風が彼の髪を乱し、影が頬に揺れる。
その仕草が、なぜか胸に刺さる。
“触れてはいけないもの”に触れようとしている気がした。
「……ばあちゃん、最後にこの旅館に泊まったんだ。10年前、海灯祭の前に」
遠くで波が砕ける音がした。
その音が、陸の言葉の余韻をさらに深く沈めていく。
(10年前……私、何してたんだろう)
ふと、そんな考えがよぎる。
自分の記憶の中の“空白”が、急に気になった。
「そのとき、写真を撮ってた。何枚も。……でも、その中の一枚が見つかってない」
「見つかってない?」
「現像したはずなのに、どこにもないんだ」
陸の声は静かだったが、奥に焦りのような熱が潜んでいた。
朱音はその熱に触れ、胸が少し苦しくなる。
(陸は……ずっと一人で探してたんだ)
その孤独が、風よりも冷たく胸に刺さる。
「だから……あの部屋を?」
そっと聞くと、陸は小さく頷いた。
「もしかしたら、残ってるかもしれないって思って」
(残ってる……? 何が?)
朱音の胸の奥で、またあの細い糸が震えた。
怖いのに、目を逸らせない。
灯りの部屋。
毎晩そこを撮り続ける理由。
──“残したいものがある”という言葉。
(陸は、ずっと探してたんだ)
誰にも言わずに。一人で。
その事実が、朱音の心を強く揺らした。
そのとき、自転車のブレーキ音が響いた。
「おーい、また二人で来てんのかよ」
玲央が現れ、軽く手を振る。
夕陽が背後から差し込み、彼の影が長く伸びていた。
(……邪魔、なんて思っちゃだめだよね)
胸の奥で、そんな自分に驚く。
玲央に対してではなく、陸の表情が曇るのが怖かった。
「……あれ、それ」
玲央は陸の手元のキーホルダーに気づき、一瞬だけ目を見開いた。
その反応は、ただの驚きではなく、どこか“知っていた”者の色だった。
(玲央も……何か知ってる?)
朱音の胸がざわつく。
「見つけたのか、それ……」
「知ってるの?」
朱音が問うと、玲央は少し言葉を選ぶように口を開いた。
「たぶん、それ……あの部屋の鍵と一緒にあったやつだ」
「鍵?」
陸が顔を上げる。
玲央は頷きながら、声を潜めた。
「親父がな、あの部屋だけは“触るな”って言うんだよ。掃除もほとんどしてないし、鍵もずっとしまいっぱなしで」
「……どうして?」
朱音の問いに、玲央は苦笑した。
けれど、その笑みはどこか曇っていた。
「分かんねえ。でも、なんか……“残しておきたいものがある”って感じだった」
(残しておきたいもの……)
その言葉が、朱音の胸に重く沈む。
“残す”という行為は、誰かの願いだ。
それが何なのか分からないのに、なぜか怖かった。
風が三人の間を通り抜け、旅館の古い木戸がかすかに鳴った。
灯りはまだ点いていない。
けれど、もうすぐ点く時間だと分かる。
(この部屋には、何が残ってるんだろう)
それは、ただの古い思い出なのか。
それとも、まだ消えていない“何か”なのか。
陸がぽつりと呟いた。
「……開けてみるしかないな」
玲央がぎょっとする。
「おい、マジかよ」
「このままじゃ、何も分からない」
陸の声は静かだが、はっきりしていた。
その横顔は、昨日よりも少しだけ強い。
(陸……怖くないの?)
朱音は、胸の奥がぎゅっと締めつけられるのを感じた。
怖いはずなのに――なぜか、目を逸らせなかった。
(たぶん、ここから変わる)
そんな予感がした。
灯りが点く前の、ほんのわずかな静けさの中で。
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