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ミステリー短編集  作者: 倉木元貴


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海沿いの旅館 第2話

 三人の立つ場所に、夜の気配がゆっくりと沈み込んでいく。

 足元の砂利は昼間よりも湿り気を帯び、踏むたびに小さく沈んだ。海から吹き上げる風が、どこか鉄の匂いを含んでいる。


〈こがわ亭〉の外壁は潮風に削られ、ところどころ塗装が剥げていた。

 夕闇が深まるにつれ、その古びた質感はよりいっそう陰影を帯び、まるで建物そのものが海の底へ沈んでいく途中のように見えた。

 窓枠の隙間からは、古い木材が乾いた音を立てて軋むのが聞こえる。風が吹くたび、建物全体がかすかに呼吸しているようだった。


 外壁の隙間から、風とは違う微かな息づかいのような音が漏れた。

 建物の奥で何かがゆっくり動いている気配がして、朱音の背筋に冷たいものが走った。

 朱音は腕をさすった。

 風が冷たいというより、肌の下にじわりと染み込むような冷たさだった。

 灯りが点いた部屋の窓は、外から見ると黒い穴のようで、そこにぽつんと浮かぶ光だけが異様に鮮明だった。

 周囲の闇がその光を押しつぶそうとしているのか、それとも光が闇を拒んでいるのか、境界が不自然に揺らいで見えた。


(……なんで、こんなに怖いんだろう)


 ただ灯りが点いただけ。

 それだけのはずなのに、胸の奥がざわつく。

 理由のない不安が、波のように寄せては返す。

 耳の奥で、遠くの波音とは別の、もっと細いざわめきが聞こえた気がした。


 隣で陸がカメラを構え直す。

 その横顔は、夕方に見たときよりもさらに硬く、影が深く落ちていた。

 レンズの奥に吸い込まれそうなほど、視線が鋭い。

 カメラの金属部分が冷気を帯び、陸の指先がわずかに震えているのが見えた。


(陸……こんな顔、してたっけ)


 昔の記憶がふっとよみがえる。

 中学の頃、放課後の帰り道で、夕焼けを撮ろうとして失敗して、照れたように笑っていた陸。

「うまく撮れねぇ」と言いながら、朱音の方を見てはすぐに目をそらしていた。


 その面影は、今の陸のどこにもなかった。

 変わったのは陸なのか。

 それとも、自分の知らない時間の中で、陸はずっとこういう表情をしていたのか。

 朱音は胸の奥がきゅっと締めつけられるのを感じた。


 玲央はというと、遅れてきたせいか、まだ息が整っていない。

 けれど、その表情にはどこか無理に明るさを貼りつけたようなぎこちなさがあった。

 肩で息をしながらも、視線は灯りから離れない。

 まるで、目をそらした瞬間に何かが変わってしまうとでも思っているかのようだった。


「三崎のおばあちゃんが使ってたって……」


 朱音はその言葉を反芻する。

 三崎のおばあちゃん――町の誰もが知っている、あの穏やかな笑顔の人。

 十年前、突然亡くなったと聞いたとき、町中がしんと静まり返ったのを覚えている。


 その人が、あの部屋に。


 灯りがまた、ふっと揺れた。

 風のせいではない。

 まるで誰かが部屋の中を歩いているかのように、影が一瞬だけ動いたように見えた。

 窓の内側で、薄いカーテンがわずかに膨らんだ気がした。


 朱音は思わず陸の袖をつまんだ。

 陸は驚いたように朱音を見たが、すぐに視線を灯りへ戻す。


「……見えた?」


「うん……なんか、動いたように……」


「俺も、そう思った」


 玲央の声が低く落ちる。

 さっきまでの軽さが消えていた。

 三人の間に、言葉にならない緊張が張りつめる。

 波の音が、やけに遠く聞こえた。


 朱音は、胸の奥に小さな痛みを覚えた。

 恐怖とは違う。

 もっと曖昧で、もっと深いところに沈んでいる感覚。


(この灯り……何か、呼んでるみたい)


 そんな馬鹿げた考えが浮かんで、朱音は自分で驚いた。

 けれど、否定できなかった。

 灯りはただの光ではなく、何かの“気配”をまとっているように思えた。

 その気配は、海の底からゆっくりと浮かび上がってくる泡のように、静かに、しかし確実に三人へ近づいていた。


 陸が小さく息を吸う。


「……行こう」


「え?」


「中、確かめる。今日じゃなきゃ駄目だ」


 その声は、決意というより、追い詰められた人間のように固かった。

 朱音は思わず陸の顔を見つめる。

 その目には、恐れとも焦りともつかない色が宿っていた。


 玲央も、ほんの一瞬だけ表情を曇らせた。

 だがすぐに、いつもの調子を装うように肩をすくめる。


「……まあ、ここまで来たしな。行くしかないか」


 灯りが、また揺れた。

 まるで三人の決断を待っていたかのように。


 朱音は喉がひりつくほど緊張しながら、旅館の古びた玄関を見つめた。

 玄関の前には、かつて客を迎えたであろう石畳が残っていたが、今は海砂が薄く積もり、踏むたびにしゃり、と乾いた音を立てた。

 軒先の風鈴は錆びついて音を失い、代わりに金具が風に揺れてかすかな金属音を響かせる。

 その音が、まるで誰かが内側から戸を叩いているように聞こえて、朱音は思わず息を呑んだ。 木製の引き戸は、長い年月を吸い込んだように黒ずみ、取っ手の金具は潮で白く曇っている。

 その向こうに広がる闇は、ただの暗さではなく、何かが潜んでいる気配を孕んでいた。


 その先に何があるのか。

 何が待っているのか。


 分からない。

 けれど――もう、引き返せない気がしていた。

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