海沿いの旅館 第1話
《プロローグ》
海辺の町の夜は、静かだ。
けれどその静けさは、ただの無音ではない。
遠くで寄せては返す波が、まるで眠る誰かの胸が上下するように、ゆっくりと呼吸している。
古びた旅館〈こがわ亭〉は、海沿いの坂道の途中にぽつんと建っている。
潮風にさらされた木造の外壁はところどころ色が抜け、看板の文字も薄れていた。
観光客が減って久しいその旅館は、夜になると建物全体が海の闇に沈むように静まり返る。
――ただひとつ、三階の角部屋を除いて。
誰も泊まっていないはずのその部屋だけが、毎晩、決まった時刻になるとぽつりと灯りをともす。
海風に揺れる薄いカーテン越しに、淡い橙色の光が滲み、外の暗がりに小さな島のように浮かび上がる。
部屋の中には、人の気配はない。
けれど、机の上に置かれた古い目覚まし時計は、誰かが触れたように針を震わせ、
窓辺の椅子は、まるで“そこに座っていた誰か”の温もりをまだ覚えているかのようだった。
灯りがともるたび、旅館の主人は「またか」と眉をひそめるが、原因を確かめる気にはなれなかった。
理由は分からない。ただ、あの部屋には“触れてはいけないもの”があるような気がしていた。
そして、夜が深まり、日付が変わる頃――
灯りはふっと、息を引き取るように消える。
静寂の中で、最後のページを閉じるような、かすかな気配だけを残して。
その不思議に、まだ誰も気づいていない。
けれど、灯りが消えるその瞬間、海風に紛れて小さなシャッター音が響いた。
――カシャン。
その音を聞いたのは、ただひとり。
カメラを手にした少年、三崎 陸だった。
彼の胸の奥で、言葉にならないざわめきが小さく波紋を広げていた。
♢♢♢
《第1話》
放課後の図書室には、紙の匂いと、窓から差し込む淡い光だけが残っていた。
夕陽はすでに傾き、ガラス窓の縁を金色に染めている。
静まり返った室内には、ページをめくる音すらなく、埃がゆっくりと舞い落ちるのが見えるほどだった。
芦原朱音は、貸し出し棚に戻すための写真集を両腕いっぱいに抱えて歩いていた。
重さで腕が少し震え、抱えた本の角が胸に当たって痛い。
それでも、この静けさの中にいると、心の奥のざわつきが少しだけ落ち着く。
――誰にも触れられない場所に、自分だけが沈んでいけるような感覚。
そのうちの一冊が、ふいに指先から滑り落ちた。
パサリ――
軽い音とともに、古びた“紙切れ”が床に舞いおりる。
夕陽の光を受けて、紙片はひらひらと金色に揺れた。
拾い上げると、それは10年前の海灯祭のチケットだった。
(どうして、こんなところに……)
表面には「灯りの海を見にいこう」というキャッチコピー。
どこか懐かしいフォント。
指先に触れた紙は少し湿気を帯びていて、長い時間を眠っていたことを物語っていた。
朱音の胸の奥で、古い記憶がそっと揺れる。
中学一年の夏。
親友と、そして――思い出したくないのに、思い出してしまう名前が、胸の奥で静かに疼いた。
あの夏の空気は、今でも胸の奥に残っている。
海沿いの道を三人で歩いたときの、湿った風の匂い。
笑っていたはずなのに、どこかぎこちなかった自分。
そして、ほんの小さなすれ違いが、思っていた以上に深い溝になってしまったこと。
誰も悪くなかったはずなのに、言葉にできない後悔だけが、今も心のどこかに沈んでいる。
チケットを見つめる指先が、かすかに震えた。
「……あれ、朱音?」
静寂を破る声が降ってきた。
朱音ははっと振り向く。
入り口に立っていたのは、カメラバッグを肩にかけた少年、三崎 陸。
逆光の中に立つ彼の輪郭は淡く光り、表情が一瞬読めなかった。
胸がざわつく。
予期していなかった名前。
会いたいような、会いたくないような、複雑な感情が同時に胸に満ちる。
――どうして今、ここに。
「久しぶり。図書当番?」
陸の声は落ち着いていて、どこか距離がある。
けれどその瞳は、相変わらず静かで、柔らかいのに奥が読めない。
その視線に触れた瞬間、朱音の心はわずかに揺れた。
朱音は微妙にぎこちなく頷く。
「うん……。陸は、写真部?」
「まあね。ちょっと探してる本があって」
陸は写真集の棚に近づき、一冊、目的の本を引き抜く。
その指先の動きが妙に丁寧で、朱音は胸の奥がまたざわつく。
――変わっていないようで、どこか変わった気がする。
沈黙。
窓の外で風が木々を揺らす音だけが、二人の間を通り抜けていく。
言葉を探すたび、喉の奥がきゅっと締まる。
そんな空気を破ったのは、別の声だった。
「朱音、いたいた!」
明るい声が図書室に飛び込み、古賀玲央が勢いよく顔を覗かせた。
夕陽を背負った玲央の影が床に長く伸びる。
「お前に相談あるんだよ。旅館のことでさ……“なんか、変”なんだ」
陸が少しだけ眉を上げる。
朱音は首をかしげる。
「変って?」
玲央は周囲を気にして、声を落とした。
「……誰も泊まってない部屋の灯りが、毎晩、勝手に点くんだよ」
朱音はチケットを握りしめた手に力が入る。
胸の奥で、さっきまで眠っていた不安がゆっくりと目を覚ます。
陸は、気配を殺すように黙った。
その沈黙が、逆に何かを知っているように思えてしまう。
図書室の静けさが、さっきまでとは違う色を帯びる。
妙な、静かな緊張が三人の間を流れた。
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