記憶の檻 最終話
朝が来る前に、彼は決めていた。逃げない。それだけは、はっきりしていた。眠れないまま迎えた薄明の中で、彼はゆっくりと体を起こした。窓の外はまだ青く、世界は曖昧な輪郭のまま静止している。すべて思い出した今、ここにいる意味も、これから起こることも理解していた。
——終わらせる。
それ以外に選択肢はなかった。
ドアが開く。
「おはよう」
昼の悠斗が入ってくる。何も知らない顔で、いつものように笑っている。
「……おはよう」
彼は答えた。その声は驚くほど穏やかだった。
「顔、少しマシになったな」
「そうかもな」
短い会話。だが、その一つ一つが妙に重かった。悠斗は椅子に腰掛け、何気なく言った。
「今日さ、外出許可出るかもしれねえって」
心臓が静かに鳴る。
「ほんとか」
「医者がそんな感じのこと言ってた。いいタイミングだろ」
——ああ。確かに。
「行こうぜ。昔の場所」
悠斗が立ち上がる。その言葉に、彼はゆっくりと頷いた。
「……ああ」
それでいい。それがいい。
数時間後。簡単な手続きのあと、二人は病院を出た。空はすっかり明るくなっていた。外の空気はどこか現実味が薄い。だが、足取りは迷わなかった。体が覚えている。記憶が導く。
歩きながら、会話はほとんどなかった。悠斗は特に気にした様子もなく、軽い調子で周囲を見ている。それが逆に救いのようにも思えた。
——このまま、何も知らないままでいられたら。
一瞬だけ、そんな考えがよぎる。だが、すぐに打ち消す。それは許されない。
やがて、目的の場所に辿り着く。あの路地だった。細く、暗く、人気のない場所。記憶の中と寸分違わない。
「……ここ?」
悠斗が首を傾げる。
「こんなとこ来てたっけ」
「来てた。何度もな」
その声には確かな実感があった。一歩踏み出し、路地の奥へ進む。悠斗も後に続く。
その瞬間——空気が変わった。冷たく、重い。そして。
「……来たな」
声がした。振り向かなくても分かる。夜の悠斗だ。そこに立っている。
「……え?」
昼の悠斗が戸惑いの声を上げる。
「誰だよ、あれ」
当然の反応だった。二人いる。同じ顔が。同じ声が。
「何これ……」
混乱する昼の悠斗。だが、夜の悠斗はそれを無視して彼だけを見ていた。
「決めたか」
静かな問い。彼は頷いた。
「……ああ」
短く。だが、確かに。
「どうする」
問われる。選択の最終確認。彼はゆっくりと息を吐いた。そして——
「受け入れる」
はっきりと言った。その言葉は空気に沈み、重く響いた。昼の悠斗が息を呑む。
「……何の話だよ」
だが、誰も答えない。夜の悠斗がわずかに笑った。
「いいね」
一歩近づく。
「じゃあ、終わらせよう」
その言葉と同時に、世界が歪む。音が遠のく。視界が揺れる。記憶が——一気に流れ込んでくる。叫び声。暴力。笑い声。無関心。すべてが重なり、押し潰す。
「……っ!!」
膝が崩れる。息ができない。だが、目を逸らさない。逃げない。それが選んだことだから。
「見ろ。全部だ」
悠斗の声。過去が繰り返される。何度も、何度も。そして——最後の瞬間。倒れる悠斗。動かなくなる体。自分の笑い声。それが、はっきりと再生される。
「……ああ……」
声にならない声が漏れる。
「これが、お前だ」
突きつけられる現実。否定できない真実。彼はゆっくりと顔を上げ、夜の悠斗を見る。
「……終わりでいい。逃げない」
震えながらも言い切る。その目には、ようやく迷いがなかった。夜の悠斗はしばらく黙っていた。そして——
「分かった」
静かに頷いた。
その瞬間。彼の視界が暗転する。意識が落ちる。体の感覚が消えていく。まるで深い水の底に沈むように。
最後に見えたのは——悠斗の表情だった。それがどちらの悠斗だったのかは分からない。ただ、ほんのわずかにだけ、安堵のようなものがそこにあった気がした。
——数日後。
病院の一室。ベッドの上で、悠斗は目を覚ました。
「……ん」
ぼんやりと天井を見上げる。体は重いが、意識ははっきりしている。ドアが開き、医師と看護師が入ってくる。
「気がつきましたか」
医師が言う。
「……あれ。俺、なんでここに」
記憶が曖昧だった。だが、不思議と不安はなかった。ただ、一つだけ。
「……あいつは?」
口をついて出た名前は——そこには、なかった。医師が少しだけ表情を曇らせる。
「あなたと一緒にいた方ですが」
静かに言う。
「発見された時には、すでに意識不明で……そのまま……」
悠斗は、しばらく何も言わなかった。理解するのに時間がかかる。だが、やがて。
「……そっか」
小さく呟いた。悲しみがあるのかどうか、自分でも分からない。ただ、胸の奥に奇妙な空白があった。何かが消えたような。あるいは——何かが、ようやく終わったような。
窓の外を見る。空は晴れていた。どこまでも、普通の空だった。その下で、すべては終わった。確かに終わったはずなのに、なぜか、どこかでまだ続いているような気もしていた。
——彼は、最後に何を見たのか。それを知る者は、もういない。ただ一つ、確かなことがある。記憶は消えても、行為は消えない。そして、その重さだけは——どこまでも残り続ける。
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