記憶の檻 第6話
夜が明けた。だが、彼にとってそれは救いではなかった。むしろ、逃げ場を完全に失ったことを意味していた。すべて思い出してしまったからだ。
ベッドの上で天井を見つめながら、彼は微動だにしなかった。まぶたの裏に焼き付いた光景が、まるで“罰”のように繰り返される。体は生きているのに、中身だけがどこか遠くへ置き去りにされたような感覚だった。呼吸の仕方すら忘れたように、胸が浅く上下するだけだ。
——俺は、あいつを殺した。
その言葉は、思考というより“落下”に近かった。否定しようとするたび、記憶の断片が鋭く突き刺さり、逃げ道を塞ぐ。直接手を下したのか、それとも“結果的にそうなった”のか。その境界は曖昧だった。だが、どちらであっても意味は同じだった。自分は、加害者だ。
その事実だけが、冷たく、重く、胸の奥に沈んでいく。
「起きてる?」
軽い声がした。ドアが開く。昼の悠斗だ。何も知らないような顔。いつもの、気の抜けた笑み。
その無邪気さが、今は刃物のように痛い。
「……ああ」
彼は短く答えた。その顔を、まっすぐ見ることができない。視線が触れた瞬間、自分の罪が露わになる気がした。
「顔色悪いな。大丈夫か?」
「大丈夫」
嘘だった。喉の奥がひりつき、言葉が砂のように崩れていく。だが、それ以上の言葉は出てこない。
悠斗はベッドの横に腰掛け、しばらく沈黙が続く。その沈黙が、妙に優しくて、逆に耐え難かった。
「なあ」
彼は意を決して口を開いた。心臓が一瞬だけ跳ねる。
「お前……覚えてるか?」
「何を?」
軽い返事。
その軽さが、恐怖を増幅させる。
「全部だよ」
悠斗は少し首を傾げた。
その仕草が、あまりにも自然で、演技には見えなかった。——いや、分からない。
“知らないふり”をしているのか、それとも本当に知らないのか。どちらにしても、彼の心は揺れた。
「……何でもない」
結局そう言うしかなかった。喉の奥に言葉が貼りつき、剥がれない。
悠斗は「変なやつ」とでも言いたげに肩をすくめる。その仕草が、逆に恐ろしい。同じ人間のはずなのに、まるで別人のようだ。いや——“別人”なのかもしれない。その考えが頭をよぎるたび、胃の奥が冷たく縮む。
「なあ」
今度は悠斗の方から口を開いた。
「退院したらさ」
唐突な話題。
その無邪気さが、残酷だった。
「どっか行こうぜ。昔よく遊んでた場所とかさ。思い出すかもしれねえし」
笑いながら言う。
心臓がわずかに強く打つ。——思い出す。それはもう、十分すぎるほど思い出している。
“思い出す”という言葉が、まるで自分の傷口を指で押されているように痛かった。
「……ああ」
曖昧に頷く。悠斗は満足そうに笑った。
その笑顔はどこまでも普通だった。だからこそ、余計に歪に見えた。昼と夜。記憶の有無。人格の断絶。それらが一つの仮説に収束していく。
——“分裂”。
どちらも本物で、どちらも偽物。そして、そのどちらもが自分の罪と結びついている。
胸の奥で、何かが静かに軋んだ。
その日の夜。彼は、初めて自分から口を開いた。
「……話がある」
闇の中。悠斗はすでにそこにいた。
その存在感は、昼とはまるで違う。空気がわずかに重くなる。
「いいよ。何でも聞く」
余裕のある声。
その余裕が、底知れない。
「お前は……何なんだ。人間か?」
率直に問う。
言葉を発した瞬間、背筋に冷たい汗が流れた。
沈黙。ほんの一瞬。
だが、その一瞬が永遠のように長かった。
「どう思う?」
また同じ返し。だが、今度は逃げなかった。
逃げても意味がないと、ようやく理解した。
「二人いる。昼と夜で、別人みたいに。どっちもお前だ。でも……違う。記憶も、性格も、全部」
言葉を選びながら続ける。
自分の声が、どこか遠くから聞こえるようだった。
「分かれてる」
静寂。
その静寂の中で、自分の鼓動だけが異様に大きく響く。
やがて——
「半分正解」
悠斗が言った。その声にはわずかな愉快さが混じっている。
その愉快さが、恐怖をさらに深くした。
「じゃあ、残り半分は?」
問い返す。
喉が乾き、声がかすれる。
悠斗はゆっくりと歩み寄ってきた。
その歩みが、まるで“答え”そのもののように重かった。
「俺は“分かれた”んじゃない。“残った”んだよ」
低く言う。
その言葉の意味がすぐには理解できない。理解したくない、という方が近かった。
「どういう意味だ」
「そのまんま。壊れたあとに、残った側」
ぞくりと背筋が冷える。
壊れた。それは——自分たちが、彼に何をしたのか。
「お前たちがやったことの結果だ。昼の俺は、普通のまま残った」
「じゃあ、お前は」
「残りカス」
自嘲気味に笑う。
その笑いが、ひどく乾いていた。
「痛みとか、怒りとか、そういうのだけが凝り固まったやつ」
言葉が出ない。
胸の奥で、罪悪感がゆっくりと形を持ち始める。
「だからさ」
一歩近づく。
その距離が縮まるたび、呼吸が浅くなる。
「バランス取ってるだけ。壊された分、壊し返す」
シンプルな理屈。そして、どうしようもなく正当化された論理。
その論理の前で、自分は何も言えなかった。
「……終わったらどうなる。全部終わったら」
彼は問うた。
問いながら、自分が何を望んでいるのかすら分からなかった。
悠斗は少しだけ考えた。
「消えるんじゃね? たぶん」
軽く言う。
その軽さが、逆に重かった。
「昼の方は?」
「さあな。どうでもいい」
本当にどうでもよさそうだった。
その無関心が、逆に恐ろしい。
「……俺はどうなる」
最後の問い。
その問いには、恐怖と期待が入り混じっていた。
悠斗は少しだけ目を細めた。
「選べるよ」
意外な答え。
胸の奥がざわつく。
「は?」
「逃げるか」
指を一本立てる。
「受け入れるか」
もう一本。
「どっちでもいい。ただし」
声が低くなる。
「逃げても、たぶん無駄だけどな」
静かな確信。
その確信が、彼の心を締め付ける。
「受け入れるってのは」
「そのまんま。自分が何したか認めて、終わる」
終わる。その言葉の意味は、一つしかない。
喉がひりつき、呼吸が止まりそうになる。
「……殺すのか」
かすれた声で問う。
その問いは、恐怖よりも“覚悟”に近かった。
悠斗は少しだけ考えた。
「それも一つ。でも、もっといい終わり方があるかもな」
「何だそれは」
悠斗は答えなかった。ただ、にやりと笑った。
その笑みが、何よりも不気味だった。
「考えとけよ。時間はそんなにない」
背を向け、そのまま闇に溶けるように消えた。
静寂。完全な孤独。
彼はゆっくりと目を閉じた。
選択肢は二つ。逃げるか、受け入れるか。だが——本当はもう、分かっている。どちらを選んでも、結末は大きくは変わらない。違うのは、その“意味”だけだ。
そして彼は、初めて自分の意思で考え始めた。
どう終わるべきかを。
自分という存在に、どんな結末を与えるべきかを。
それは、誰にも決められない。自分で決めるしかない。
——たとえ、その先にあるのが破滅だとしても。
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