記憶の檻 第5話
夜になるのが、遅く感じた。時計の針は確実に進んでいるはずなのに、体感だけが引き延ばされているようだった。窓の外はゆっくりと暗くなり、やがて完全な夜に沈む。彼はベッドの上で、ただじっと待っていた。逃げることもできたはずだ。ナースコールを押して人を呼び、眠れないと訴えることもできた。だが、そうはしなかった。——逃げても無駄だと、どこかで分かっていたからだ。それに、自分が何をしたのかを知る必要があった。
時計が二時を回った頃、空気が変わった。音が消える。病院特有の機械音すら遠のいたように感じられる。そして——
「起きてるな」
声がした。振り向かなくても分かる。そこにいる。椅子に座る気配。夜の悠斗だ。
「……ああ」
彼は答えた。驚くほど、声は落ち着いていた。
「いい顔だ。覚悟決まってる」
「……さっさと教えろ」
短く言う。沈黙が落ち、やがてくすりと笑う声。
「いいね」
椅子がきしむ音。立ち上がる。
「じゃあ、順番にいこうか。まず一人目」
その言葉と同時に、頭の奥で何かが弾けた。視界が反転する。夜の路地。街灯がまばらに灯る、人気のない場所。数人の影。その中に、自分がいる。
「やめろって……」
かすれた声。壁際に追い詰められている男子。細い体、震える肩。
「うるせえな。まだ元気じゃん」
誰かが笑い、別の声が重なる。足が動き、蹴る。鈍い音。体が崩れる。それを見下ろして——笑う。——自分が。
「……っ」
現実と記憶が混ざる。吐き気が込み上げる。
「そいつ、覚えてるか?」
悠斗の声が響く。答えられない。だが、頭のどこかが理解している。名前。顔。断片的に浮かび上がる。
「……知らない」
かろうじて否定する。
「嘘つくなよ。同じクラスだっただろ」
その声に冷たい圧が乗る。瞬間、像がはっきりする。教室の席、窓際、目立たない男子。名前が浮かぶ。だが、口に出せない。
「一人目は、そいつだ。死んだよ」
淡々と告げる。
「……お前が?」
「さあな。でも結果的には、そうなる」
意味が分からない。だが、聞き返す余裕はなかった。
「次」
言葉が続き、再び視界が歪む。今度は教室だった。昼間。誰もいない時間。机が一つ、中央に寄せられている。その上にカバンが置かれている。
「これ、捨てとく?」
「いいんじゃね、どうせ使わねえし」
笑い声。カバンが開けられ、中身が床にぶちまけられる。教科書、ノート、筆箱。それを踏みつける足。
「やめて……」
後ろから声。振り返る。さっきとは別の男子。目が潤んでいる。だが、その表情が——やけに腹立たしい。
「は? 何泣いてんの?」
自分の声。笑いながら近づく。
「気持ち悪いんだけど」
手を伸ばし、胸ぐらを掴み、押し倒す。
「調子乗んなよ」
鈍い音。息が詰まる音。あまりにも自然な動作。躊躇がない。そこに“悪いことをしている”という認識が、ほとんどない。
「……やめろ」
その声に、わずかな苛立ちを覚える。——うるさい。その感情が、はっきりと蘇る。
「……っ!」
現実に戻る。息が荒い。
「二人目。そいつも死んだ」
「……なんで。なんで、そこまで」
ようやく言葉が出る。悠斗は少し黙り、そして静かに言った。
「同じことをしただけだ。お前たちがやったことを」
その言葉は重かった。逃げ場を塞ぐように。
「まだいる。三人目、四人目……」
一人ずつ、記憶が引きずり出される。笑い声、暴力、無視、積み重ね。どれも些細に思えていた行為が、連なっていく。
「最後」
悠斗の声が少し低くなる。空気が変わる。
「これが、一番重要だ」
心臓が強く打つ。嫌な予感。逃げたい。だが、逃げられない。視界が再び歪む。夜。あの路地。だが、さっきとは違う。人数が少ない。自分と、もう一人。そして——地面に倒れている、誰か。
「……やりすぎだろ」
震える声。仲間の一人。
「うるせえな。今さら何言ってんだよ」
自分の声。足元の体を蹴る。反応がない。
「……これ、まずいって」
「大丈夫だって。どうせ誰にも——」
そのとき、倒れていた“それ”の顔が見える。血で汚れている。だが——はっきりと分かる。その顔は。
——悠斗だった。
「……っ!!」
現実に引き戻される。呼吸が止まる。心臓が暴れる。
「……思い出したか」
悠斗の声。目の前にいる。静かに立っている。
「……お前。俺が……」
言葉が続かない。だが、答えはもう出ている。
「そうだよ。最後は、俺だ」
悠斗は頷いた。その表情には怒りも悲しみもなかった。ただ、静かな確信だけがあった。
「お前は、俺を壊した」
一歩、近づく。
「だから——」
ゆっくりと手を伸ばす。
「順番に、返してる」
その手が肩に触れる。冷たい。
「これで、全部だ。逃げ場はない」
囁く。
「残ってるのは——」
一瞬の間。
「お前だけ」
その言葉が決定打だった。すべてが繋がる。断片だった記憶が、一つの線になる。自分は加害者だった。複数人で一人を追い詰め、壊し、最後には——取り返しのつかないところまで追い込んだ。そして今、その結果が目の前に立っている。
「……なんで。なんで生きてる」
かすれた声で問う。悠斗はゆっくりと笑った。
「さあな。でも、どっちでもいいだろ」
同じ答え。目がわずかに細まる。
「お前を終わらせる理由には、十分だ」
静かに言い切る。反論はできない。否定もできない。ただ一つだけ分かっている。——これは終わる。確実に。そして、その終わり方は、決して穏やかなものではない。
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