記憶の檻 第4話
翌日、彼は初めて自分から医師に申し出た。
「外に出たいです」
診察室でそう告げると、医師は少し意外そうに眉を上げた。
「外、というのは?」
「院内でも構いません。ずっと同じ場所にいると……その、気分が滞るというか」
言葉を慎重に選びながら答える。嘘ではない。だが、本当の理由は別にあった。——確かめたい。この世界が、どこまで“現実”として成立しているのか。医師はカルテを見つめながら短く考え、やがて頷いた。
「短時間なら構いません。ただし、単独行動は避けてください。看護師かご家族と一緒に」
「……はい」
本当は一人になりたかったが、条件を飲むしかなかった。その日の午後、彼は看護師に付き添われて病棟の外へ出た。長い廊下、規則的に並ぶ扉、窓から差し込む白い光。どこもかしこも現実的で、だからこそ逆に違和感があった。すべてが整いすぎている。自分だけが、その整った世界から切り離されているような感覚だった。
「大丈夫ですか?」
「ええ」
看護師の声に短く返しながら、彼は歩きつつ周囲を観察した。人の気配、音、影、空気の流れ。——あの“夜の悠斗”は、どこに潜んでいるのか。しかし、昼間の病院には異常の欠片もなかった。すべてが正常で、穏やかで、退屈なほどに平和だった。
やがてロビーに出る。テレビがついていた。ニュース番組らしい。特に興味はなかったが、なんとなく視線を向けた。その瞬間、体が固まった。
『——市内で発見された遺体について、警察は事件性が高いとみて——』
画面にはぼかしの入った現場映像。規制線、青いシート、人だかり。そしてテロップ。行方不明だった高校生、死亡確認。名前が表示されると同時に、頭の奥で鈍い痛みが弾けた。
「……っ」
思わず額を押さえる。視界が揺れ、断片がまた流れ込んでくる。夜の路地、複数の影、荒い息、誰かの声。
「やりすぎだって」
「うるせえよ、今さらだろ」
笑い声、足音、鈍い衝撃音。そして——地面に倒れた誰か。動かない。ぴくりとも動かない。
「……マジでやばくね」
震えた声。だが、別の声がそれを軽く押しつぶす。
「大丈夫だって。どうせこいつ、誰にも言えねえし」
その声に、聞き覚えがあった。——自分だ。
「……っ!!」
現実に引き戻される。息が乱れ、胸がざわつく。視界の端でテレビの映像が淡々と続く。
『——死亡したのは、同じ高校に通う男子生徒で——』
同じ高校。その言葉が、やけに重く沈んだ。
「……どうかしましたか?」
「いえ……」
看護師の問いに首を振るが、内心は大きく揺れていた。——“もう終わってるやつもいる”。昨夜の言葉が鮮明に蘇る。あれは脅しではない。現実だ。すでに、何人かは——殺されている。そして、その中に自分と関わりのあった人間がいる。
病室に戻ると、悠斗がいた。
「どこ行ってた?」
「ちょっと散歩」
「へえ、いいじゃん」
いつもの軽い調子で椅子に腰掛ける。その姿を見て、彼は確信に近い感覚を抱いた。——こいつは、知っている。
「なあ」
「最近、誰か死んだか?」
悠斗の動きが止まった。ほんの一瞬。だが、確かに止まった。
「……なんで?」
「ニュースでやってた」
「ふーん」
興味なさそうな返事。しかし、その目はわずかに細められている。
「で、それが?」
「同じ高校って言ってた」
沈黙。空気が重く沈む。やがて悠斗は小さく息を吐いた。
「……ああ。知ってるやつだよ」
「知り合いだったのか」
「まあな」
それ以上は語らない。だが、その態度がすべてを物語っていた。軽い。あまりにも軽い。人が死んだというのに。
「……他にもいるのか」
自然に言葉が出た。悠斗はわずかに口元を歪める。
「さあな」
はぐらかすような返事。しかし、その曖昧さが逆に確信を深める。——いる。他にも。
「……俺も、その中にいるのか」
言った瞬間、空気が凍りついた。悠斗はしばらく黙り、そしてゆっくり問い返す。
「どう思う?」
その目は、完全に“あちら側”のものだった。昼と夜の境界が、じわりと溶けていく。
「……分からない」
「そりゃそうだ」
悠斗は小さく笑い、椅子から立ち上がった。
「でも、近いよ。かなり近い」
「何が」
「全部。繋がる」
心臓が強く跳ねる。
「そしたら分かる。誰が何をして、どうなったのか」
逃げ場がない。視線を逸らせない。
「……お前は」
「誰なんだ」
かすれた声で問うと、悠斗は一瞬だけ目を伏せ、考えるような間を置いた。
「被害者。それと、加害者の後始末をするやつ」
その言葉の意味を、理解したくなかった。だが、理解してしまう。——復讐。それが、今も進行している。
「……俺は。何人に、何をした」
声が震える。悠斗は答えず、ゆっくりと後ろへ下がった。
「夜になれば分かる」
それだけ言い残し、背を向けてドアへ向かう。
「待て」
思わず呼び止める。しかし悠斗は振り返らない。
「全部思い出せ」
その一言だけ残し、部屋を出ていった。
静寂が戻る。だが、その静けさはもはや安心を与えなかった。むしろ、次に訪れる“夜”の予兆のように思えた。そして彼は理解していた。——次に思い出すのは、もっと決定的なものだ。逃げ場はない。記憶も、現実も、すべてが一つに収束しようとしている。その先に何があるのか、まだ見えてはいない。だが——決して、救いのあるものではないということだけは、はっきりしていた。
おもしろかったら評価、ブックマークよろしくお願いします




