記憶の檻 第3話
それからというもの、彼は「夜」を恐れるようになった。
昼間の悠斗は、相変わらずだった。明るく、どこか無神経で、しかし一応は気遣う様子も見せる。記憶を無理に引き出そうとはせず、当たり障りのない会話を続けるだけだ。
だが、夜になると違う。あの“もう一人”が現れる。静かで、冷たく、そして明確な悪意を持った存在。
同じ顔をしているはずなのに、見間違えることはなかった。声の調子、視線の重さ、空気そのものが違う。
そして何より——言葉が違った。あれは、明確に「復讐」と「殺意」を口にした。
幻覚ではない。そう断言できるほどに、生々しかった。
それでも、証明はできない。看護師も医師も、誰一人としてその存在を認めない。記録にも残らない。だから彼は、自分の中で整理するしかなかった。
昼の悠斗。夜の悠斗。
そして——そのどちらもが、「悠斗」であるという事実。
矛盾しているはずなのに、否定できない現実。思考が、じわじわと追い詰められていく。
そんな中で、変化は突然訪れた。
それは、四日目の午後だった。ぼんやりと窓の外を眺めていたとき、不意に頭の奥に痛みが走った。
「……っ」
鋭い痛み。思わず額を押さえる。その瞬間——映像が流れ込んできた。
教室だった。夕方の、薄暗い教室。カーテンが半分閉められ、橙色の光が斜めに差し込んでいる。机が乱れている。床に、誰かが座り込んでいる。
——いや、押し倒されている。
「やめろって言ってんだろ」
声が響く。
その声に、聞き覚えがあった。
自分の声だ。だが、その言葉とは裏腹に、状況は“やめていない”。
むしろ逆だった。
「うるせえな」
別の声。
笑い声が混じる。
「ちょっと遊んでるだけだろ」
誰かが言う。足音。鈍い音。何かがぶつかる音。床に押さえつけられているのは——一人の男子だった。
顔はよく見えない。だが、体は小さく震えている。
「……やめろ」
弱い声。その声に、なぜか強い不快感が込み上げる。
——うるさい。
そんな感情が、頭の奥から浮かび上がる。次の瞬間。視点が変わる。床に倒れている側ではない。それを見下ろしている側。笑っている側。足を振り上げている側。
——自分だ。
「……っ!!」
現実に引き戻される。荒い呼吸が漏れる。心臓が激しく打っていた。全身に嫌な汗がにじむ。
「……なんだよ、今の」
震える声で呟く。
答えは分かっていた。あれは、記憶だ。
断片的に戻ってきた、自分の過去。
そして——明らかに、まともなものではなかった。
「……俺が」
言葉が続かない。
あの場にいた。いや、違う。あの場の“中心”にいた。それが理解できてしまう。
胸の奥が重く沈む。吐き気が込み上げる。
そのときだった。
「顔色悪いな」
声がした。
振り向くと、悠斗が立っていた。昼の悠斗だ。いつも通りの、軽い調子。
「どうした?」
覗き込むように顔を近づけてくる。その顔を見た瞬間、さっきの記憶が重なる。床に倒れていた“誰か”。その顔が、はっきりと見えなかった理由。今なら分かる気がした。
「……なあ」
彼は、ゆっくりと口を開いた。
「俺たち、学校で……何してた?」
「は?」
悠斗は一瞬、眉をひそめた。
「普通に通ってたよ」
「それだけか?」
「それだけって?」
首をかしげる。ほんのわずかだが、反応が遅い。
「……いじめとか」
その言葉を出した瞬間、空気が変わった。
ほんの一瞬。だが、確かに。悠斗の目が、冷えた。
「……なんでそんなこと聞くんだよ」
声が低くなる。
「いや、なんとなく」
「覚えてないんだろ?」
「ああ」
数秒の沈黙。
やがて悠斗は、ふっと笑った。
「ならいいじゃん」
軽く肩をすくめる。
「わざわざ嫌なこと思い出す必要ないだろ」
その言い方は、やけに自然だった。
だが——それが逆に、不自然だった。“嫌なこと”と認識している。つまり、何かはあったということだ。
「……そうだな」
彼はそれ以上、追及しなかった。できなかった。
これ以上踏み込めば、何かが決定的に崩れる気がしたからだ。
その夜。やはり、目が覚めた。
時計は午前二時を指している。
そして——
「起きてるな」
声がした。ベッドの横。椅子に、悠斗が座っている。夜の方だ。
「……来ると思った」
彼はかすれた声で言った。
「だろうな」
悠斗はあっさりと頷く。
「少しは進んだみたいだし」
「……何が」
「記憶」
短く言い切る。
「見ただろ?」
否定できない。
あの光景は、夢ではない。
「……あれは」
言葉が詰まる。
「俺がやったのか」
悠斗は、少しだけ笑った。
「どう思う?」
「……」
答えられない。
だが、答えは一つしかない気がしていた。
「まだ足りないな」
悠斗が言う。
「断片だけじゃ、実感湧かないだろ」
「……何が言いたい」
ゆっくりと、悠斗は立ち上がった。
そして、ベッドのすぐ横まで来る。
「簡単な話だよ」
静かな声。
「お前は、人を壊した」
心臓が強く打つ。
「それも、一人じゃない」
続ける。
「何人も」
息が止まる。
「その中に——」
一瞬、間を置く。
「俺がいる」
視界が揺れる。
「……は?」
理解が追いつかない。悠斗は、はっきりと言った。
「俺は、お前に壊された側だ」
その言葉は、あまりにも真っ直ぐだった。否定の余地がないほどに。
「……嘘だろ」
「嘘じゃない」
即答。
「じゃあなんで——」
言葉が乱れる。
「なんで生きてる」
悠斗は、ゆっくりと笑った。その笑みは、どこか歪んでいる。
「さあな」
肩をすくめる。
「そこはあんまり重要じゃない」
そして、顔を近づけてくる。
「重要なのはさ」
低く囁く。
「お前が、ちゃんと思い出すことだ」
「……なんでそこまで」
震える声で問う。悠斗は、少しだけ目を細めた。
「決まってるだろ」
静かに言う。
「その方が、苦しいからだよ」
背筋が凍る。
「何も分からないまま死ぬより」
一歩、距離を詰める。
「全部理解した上で、終わる方が」
口元が歪む。
「ずっといい」
その言葉に、底のない悪意が滲んでいた。
「……っ」
声が出ない。逃げ場がない。現実も、記憶も、すべてが敵になっている。
「安心しろ」
悠斗が、ぽんと肩に手を置いた。
「もうすぐ全部繋がる」
耳元で囁く。
「そしたら——」
わずかに間を置いて。
「終わりだ」
その一言が、やけに重く響いた。
次の瞬間、気配が消える。部屋には、再び静寂が戻った。
一人きり。
だが、その静けさは、もはや安らぎではなかった。むしろ、逃げ場のない檻のように感じられた。
彼はゆっくりと目を閉じる。そして、確信していた。
——自分は、何か取り返しのつかないことをしている。
まだ思い出せていないだけで、そしてそれを、あの男はすべて知っている。だからこそ、逃がさない。思い出させてから、終わらせるつもりなのだ。
その事実だけが、はっきりと分かっていた。
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