記憶の檻 第2話
入院生活は、静かに始まった。
規則正しい時間に起き、決まった時間に検査を受け、味の薄い食事を摂る。窓の外には変わらない景色が広がり、時間だけがゆっくりと流れていく。
その中で、唯一の変化は——悠斗の存在だった。
彼は毎日見舞いに来た。いや、“来ているはずだった”。
最初の違和感は、三日目の午後だった。
「調子どうだ?」
軽い調子で声をかけてきた悠斗は、ベッドの横の椅子に腰掛けると、足を組んだ。どこか落ち着きがなく、視線がよく動く。
「まあまあ」
彼は曖昧に答えた。
「記憶は?」
「戻ってない」
「そっか」
悠斗は苦笑した。
「焦んなよ。そのうち戻るって」
言い方は軽いが、どこか無理に明るく振る舞っているようにも見える。
「なあ」
彼は思い切って聞いた。
「俺たち、どれくらいの付き合いなんだ」
「は?」
悠斗は一瞬きょとんとした後、すぐに笑った。
「長いよ。幼稚園の頃から」
「……どこの?」
その問いに、ほんのわずかな間が生まれた。
「えっと……ほら、あそこだよ」
曖昧な答え。視線が泳ぐ。それ以上は続かなかった。話題はすぐに別の方向へ逸らされた。そのときは、深く考えなかった。ただ、小さな違和感として、心のどこかに引っかかっただけだった。
夕方、看護師が来た。点滴の確認をしながら、何気ない調子で言う。
「今日はお友達が来てたのね」
「……何人、来ました?」
彼は何気なく尋ねた。
「一人よ?」
迷いのない声。即答だった。
「そう、ですか」
それ以上は何も言わなかった。言えなかった、という方が正しい。
——一人?
確かに、今さっきまで話していたのは、一人だった。
だが、昨日はどうだった?
一昨日は?
思い返そうとして、思考が止まる。記憶が曖昧だ。というより——最初から整理されていない。
その夜、彼は妙な夢を見た。暗い場所だった。どこかの室内。複数の笑い声。誰かが床に倒れている。視界が揺れる。自分の視点なのかどうかも分からない。ただ、確かなのは——その場にいる誰かが、楽しそうに笑っていること。
そして、その中心にいるのが——自分だということだった。
「……っ」
息が詰まり、目が覚める。病室は暗く、時計の針は深夜を指していた。心臓が早鐘のように打っている。嫌な夢だった。
だが、“夢”という言葉だけでは片付けられない、生々しさが残っている。
喉が渇いて、水を飲もうと体を起こしたときだった。
気配に気づいた。ベッドの横。椅子に、誰かが座っている。
暗がりの中でも、その輪郭ははっきりと分かった。
「……起きたか」
低い声。悠斗だった。
昼間とは違う。声の調子も、雰囲気も、まるで別人のように落ち着いている。
「……何してる」
かすれた声で問う。
「見舞い」
短い答え。
「こんな時間に?」
「時間は関係ないだろ」
その言い方に、微かな苛立ちが混じる。昼間の悠斗にはなかったものだ。彼は無言のまま、その姿を見つめた。やはり、同じ顔だ。だが、違う。決定的に何かが違っている。
「なあ」
悠斗が言った。
「いつ思い出すんだ?」
「……何を」
「分かってるだろ」
ゆっくりと立ち上がる。一歩、こちらに近づく。距離が縮まるごとに、空気が重くなる。
「お前が何したかだよ」
心臓が跳ねた。
「知らない」
即座に否定する。
「知らない、じゃない」
悠斗は首を横に振った。
「忘れてるだけだ」
さらに一歩、近づく。
「でもさ」
その声が、わずかに低くなる。
「ちゃんと思い出してもらわないと困るんだよ」
背筋が冷える。
「なんで」
絞り出すように問う。悠斗は、ほんの少しだけ笑った。
「決まってるだろ」
その目は、まったく笑っていなかった。
「そのために、ここまで来たんだから」
意味が分からない。だが——直感的に理解する。これは、ただの会話じゃない。
「……何しに来た」
問いかけると、悠斗は一瞬だけ沈黙した。
そして、あっさりと答えた。
「復讐だよ」
言葉が、静かに落ちる。あまりにも自然に。あまりにも当たり前のように。
「は……?」
理解が追いつかない。悠斗は、さらに言葉を重ねた。
「もう終わってるやつもいる」
淡々とした口調。
「お前だけだよ、残ってるのは」
頭の中が真っ白になる。
「何を……」
「思い出せば分かる」
言い切る。
「だからさ」
ゆっくりと顔を近づけてくる。
「ちゃんと思い出せよ」
息がかかる距離。
「じゃないと——」
一拍置いて。
「殺す意味がないだろ」
その瞬間、背筋を冷たいものが走った。冗談ではない。脅しでもない。この男は、本気だ。
理由も分からないまま、確信だけが胸の奥に沈む。
逃げなければならない。だが、体が動かない。視線も外せない。
そのとき——廊下の方で、足音がした。
規則的な靴音。看護師の巡回だ。悠斗は、わずかに舌打ちした。
「……今日はここまでか」
そう呟くと、すっと身を引く。次の瞬間には、もうそこにいなかった。ドアの開く音は、しなかった。
「……は……?」
しばらく、動けなかった。
やがて恐る恐る周囲を見回す。誰もいない。椅子は空のまま。静まり返った病室に、心臓の音だけがやけに大きく響いていた。
翌朝。彼は看護師に尋ねた。
「昨日の夜、誰か来ました?」
看護師は不思議そうな顔をした。
「いいえ。夜間は誰も入っていませんよ」
「でも——」
「防犯上、出入りは記録されていますから」
はっきりとした口調だった。否定の余地がない。彼はそれ以上、何も言えなかった。病室に戻ると、悠斗がいた。
「よ」
いつもの調子で手を上げる。
明るい声。昨日の夜とは、まるで別人だった。
「顔色悪くね?」
軽く笑いながら近づいてくる。
彼はしばらく黙っていたが、やがて口を開いた。
「……昨日、来たか?」
「昨日?」
悠斗は首をかしげた。
「来てないけど」
迷いのない答え。
嘘をついているようには見えない。
だが——その瞬間。ほんの一瞬だけ。口元が、歪んだ。
笑ったのだ。昨夜の、あの笑い方で。
「……っ」
息が詰まる。
「どうした?」
何もなかったかのように、悠斗は尋ねる。その顔は、いつも通りのものに戻っていた。
——やはり、いる。“もう一人”が。
しかもそれは、ただの錯覚でも幻覚でもない。
確実に、自分に向けて意思を持っている。
そして——殺そうとしている。その事実だけが、はっきりと理解できた。理由は分からない。だが、逃げ場もまた、見当たらなかった。
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