記憶の檻 第1話
目が覚めたとき、最初に視界に入ったのは、白い天井だった。
無機質で、どこまでも均一な白。ひび割れ一つないその表面は、まるで現実感を拒絶しているかのように静まり返っていた。
しばらくのあいだ、彼はそれをただ眺めていた。
やがて、自分が呼吸していることに気づく。喉がひどく乾いていた。空気を吸い込むたびに、消毒液の匂いが鼻を刺す。
そこでようやく、ここが病院なのだと理解した。
「……あ」
声が出た。かすれて、ひどく頼りない音だった。
体を動かそうとすると、腕に違和感がある。視線を落とせば、点滴の管が繋がれていた。
事故にでも遭ったのだろうか。そう考えたとき、不意に違和感が生まれる。
——事故?
なぜ、そう思った?
思考をたどろうとして、彼は息を止めた。
何も、出てこない。自分がなぜここにいるのか。どこから来たのか。誰なのか。
何ひとつ、思い出せなかった。
「……なんだよ」
思わず呟く。
だが、その言葉さえも、自分のものではないように感じられた。
頭の中が、空っぽだった。
記憶がない、というよりも、最初から何も入っていなかったかのような空虚さ。
ただ一つ、「自分が今ここにいる」という事実だけが、かろうじて残っている。
それ以外は、すべて失われていた。
胸の奥がざわつく。
恐怖、と呼ぶにはまだ曖昧な、不快な違和感。
そのときだった。病室のドアが、勢いよく開いた。
「起きたのか!?」
飛び込んできたのは、同年代くらいの男子だった。短い黒髪に、少し鋭い目つき。安堵と焦りが入り混じったような表情で、まっすぐこちらへ歩み寄ってくる。
「よかった……マジで」
彼はベッドの脇まで来ると、心底ほっとしたように息を吐いた。
その距離の近さに、わずかな違和感を覚える。
親しい人間なのだろうか。だが——思い出せない。
「……誰だよ」
思わず口に出していた。
その瞬間、相手の表情が固まる。
「は?」
間の抜けた声が漏れる。
「お前、何言って……」
言いかけたところで、再びドアが開いた。
「おい、どうなって——」
入ってきたもう一人を見て、彼は言葉を止めた。
そして、ベッドの上の彼もまた、息を呑んだ。
同じ顔だった。
先に来ていた男子と、後から入ってきた男子。髪型も、目の形も、体格も、何もかもが一致している。
まるで鏡を二つ並べたかのように、完全に同一の存在がそこにいた。
「……は?」
理解が追いつかない。
現実感が、急速に薄れていく。
「お前、起きたのか」
後から来た方が言う。声の調子まで、ほとんど同じだった。
「よかったな」
そう言って笑う。だが、その笑顔もまた、どこか微妙に違う。
ほんのわずかな差。言葉にできない程度の、しかし確かに存在する違和。
「……誰だよ、お前ら」
絞り出すように言う。二人は顔を見合わせた。そして、ほとんど同時に口を開いた。
「悠斗だよ」
「悠斗だ」
わずかに言い回しは違ったが、意味は同じだった。
「お前の幼馴染だろ」
「忘れたのかよ」
幼馴染。
その言葉に、何か引っかかるものがあった。
だが、それ以上は続かない。記憶はやはり、何も返してこない。
「……いや、待て」
彼は混乱したまま、二人を交互に見た。
「悠斗って……」
言葉を探す。
「二人、いるのか?」
一瞬、空気が止まった。
次の瞬間、二人は同時に否定した。
「いねえよ」
「いるわけないだろ」
ぴたりと重なる否定。
しかし、その視線は互いを牽制するようにわずかに鋭くなっている。
「ふざけんなよ、お前が違うだろ」
「それはこっちの台詞だ」
静かな口調のまま、空気が張り詰める。
自分を挟んで、同じ顔の人間が対峙しているという異様な光景に、彼は言葉を失った。
やがて——
「……やめろよ」
無意識に、そう言っていた。
二人の動きが止まる。そして同時に、こちらを見た。
「悪い」
「悪かった」
また、重なる。
その不気味な一致に、背筋が冷たくなる。どちらが本物なのか。
あるいは——本当に“どちらか”なのか。
その疑問が、頭の奥で静かに膨らんでいく。
しばらくして、医師と両親が病室に入ってきた。
白衣の男が、淡々とした口調で説明を始める。
「軽度の記憶障害が見られます。事故の影響でしょう。時間経過で回復する可能性は高いですが、個人差があります」
事故。やはりそうらしい。だが、その内容について尋ねようとしても、言葉が出てこない。
「あなたの名前は分かる?」
母親が、慎重に尋ねてくる。
彼は首を横に振った。すると、彼女は少しだけ息を呑み、やがて優しく告げた。
その名前は、不思議とすんなり受け入れられた。
まるで、それだけはどこかに残っていたかのように。
「……あの」
彼はためらいながら、口を開いた。
「悠斗って……」
視線を、二人に向ける。
両親は一瞬、顔を見合わせた。ほんのわずかな沈黙。やがて父親が言った。
「幼馴染の悠斗くんだろ」
「小さい頃から仲良くしてもらってるのよ」
母親が続ける。
そして、はっきりと言い切った。
「一人よ」
その言葉は、妙に重く響いた。彼はゆっくりと、再び二人を見た。二つの同じ顔が、そこにある。どちらも現実のようで、どちらも現実ではないように思えた。
胸の奥に、言いようのない不安が広がる。
どちらかが嘘をついているのか。
それとも——自分の認識の方が、壊れているのか。
答えは、まだ出ない。ただ一つ確かなのは、この違和感が、これからさらに大きくなっていくという、根拠のない確信だけだった。
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