最後の来訪者
その屋敷には、決して招かれざる客が来ることはなかった。
少なくとも、主人である神崎はそう信じていた。郊外の森に囲まれた古い洋館。周囲に民家はなく、唯一の進入路である砂利道は門から玄関まで真っ直ぐ伸びている。誰かが訪れれば、音で分かる。見落とすはずがない。
だからこそ、その夜の出来事は理解できなかった。
発見されたとき、神崎は書斎の椅子に座ったまま死んでいた。机に突っ伏すでもなく、倒れ込むでもなく、まるで眠っているかのように背筋を伸ばしたまま、静かに息絶えていたという。死因は毒殺。即効性の強い薬物が使われていた。
そして奇妙なことに、屋敷は内側から施錠されていた。
第一発見者は使用人の柏木である。朝食の時間になっても主人が現れないことを不審に思い、書斎を訪れたところ、扉は内側から鍵がかかっていた。何度呼びかけても返事はなく、やむなく合鍵で開けて中に入ったところ、神崎の遺体を発見したという。
窓はすべて内側から閉められ、鍵もかかっていた。外部から侵入した形跡はない。つまり、典型的な密室だった。
「自殺の可能性は?」
私は現場を一通り確認したあと、柏木に尋ねた。
「あり得ません」
彼は即座に首を振った。「旦那様は毒物など扱いませんし、第一、遺書もございません」
書斎は整然としていた。机の上には数冊の書類と万年筆、そして飲みかけのコーヒーが置かれている。カップの中身は半分ほど残っており、すでに冷めきっていた。
「このコーヒーは?」
「私が運びました。昨夜の九時ごろです」
「その後、誰か部屋に入った者は?」
「いません。旦那様は仕事中は誰も近づけませんから」
つまり、毒はそのコーヒーに混入された可能性が高い。
「あなたはキッチンを離れましたか」
「いいえ。準備から運搬まで、私が一人で行いました」
落ち着いた口調だったが、わずかに緊張が見えた。
「他に屋敷にいた者は?」
「私と、庭師の三浦だけです。ただ、三浦は夕方には帰宅しています」
私は頷き、再び書斎に視線を戻した。密室、毒殺、外部侵入の形跡なし。単純に考えれば、内部犯行だ。
だが、引っかかる点があった。
「昨夜、誰か来訪者はいませんでしたか」
何気なく尋ねたその質問に、柏木は一瞬だけ言葉を詰まらせた。
「……いいえ」
「本当に?」
「はい」
わずかな間。だが、それは明確な“間”だった。
「砂利道の音は?」
「……何も」
嘘だと感じた。
だが、それをすぐに追及することはしなかった。
代わりに、私は別の点に目を向けた。
机の上のコーヒーカップ。その縁に、わずかな違和感がある。
「これは、旦那様が普段使っていたものですか」
「はい」
「他のカップと同じですか」
「ええ、同じセットのものです」
私はカップを手に取り、光にかざした。
ほんのわずかだが、内側に擦れたような跡がある。
そして——
「これは、最近洗いましたか」
「昨夜、使用後に洗う予定でしたが、そのままに……」
「では、これは昨夜のままということですね」
「はい」
私はカップを元に戻し、静かに言った。
「犯人はあなたですね、柏木さん」
空気が、凍りついた。
「……何をおっしゃっているのですか」
声は平静を装っていたが、その奥にひびが入っている。
「毒はコーヒーに入っていた。しかし、あなたはキッチンを離れていないと言った。つまり、混入できるのはあなたしかいない」
「それだけで——」
「いいえ、決定的なのは別です」
私はカップを指差した。
「このカップには、二度洗った痕跡がある」
柏木の目がわずかに見開かれる。
「通常、使用後に一度洗えば十分です。ですが、このカップは一度洗ったあと、さらに軽くすすがれている。理由は簡単だ。最初に洗ったとき、毒の痕跡を完全に落とせなかったから」
「……そんなことは」
「そして、もう一つ」
私は静かに続けた。
「昨夜、来訪者があった」
沈黙。
「あなたはそれを隠した。なぜか。来訪者がいると、犯行の機会が分散されるからだ。つまり、あなたの単独犯ではなくなる」
柏木の呼吸が、わずかに乱れる。
「だが実際には、来訪者はいた。そして——」
私は窓の外を見た。
「その人物は、すでに帰っている」
「……何を根拠に」
「簡単です。砂利道の音がなかったはずがない。あなたはそれを“聞かなかった”のではなく、“聞いたことにしたくなかった”」
柏木は、ゆっくりと目を閉じた。
数秒の沈黙。
やがて、小さく息を吐く。
「……お見事です」
その声には、もはや抵抗の色はなかった。
「確かに、昨夜客が来ました。旦那様の古い知人です。短い面会のあと、すぐに帰りました」
「その人物は無関係ですか」
「ええ。少なくとも、殺害には」
「では、なぜ殺した」
問いに、柏木はしばらく答えなかった。
やがて、ぽつりと呟く。
「……あの方は、私の家族を壊した」
静かな声だった。
「昔、旦那様の事業に巻き込まれて、父は破産し、母は病に倒れました。私は……ずっと、この家で仕えることで機会を待っていた」
復讐。
ありふれた動機だった。
「昨夜、その知人と話しているのを聞いて、確信したのです。あの方は、何も反省していないと」
私は黙って聞いていた。
「だから、コーヒーに毒を入れた」
「密室はどう作った」
「旦那様はいつも内側から鍵をかけます。私はただ、それを利用しただけです」
単純な話だった。
外部から侵入する必要も、複雑なトリックもない。
ただ、機会と意志があっただけだ。
私はゆっくりと頷いた。
「一つだけ、確認させてください」
「何でしょう」
「来訪者の名前は?」
柏木は一瞬だけ迷い、そして答えた。
「……山岸と名乗っていました」
その名前を聞いた瞬間、私はわずかに眉をひそめた。
どこかで聞いたことがある。だが、それを追う前に、事態は終わった。
柏木はその場で身柄を拘束され、事件は解決した。
——はずだった。
数日後、私は一つの報告書に目を通していた。
そこには、こう記されていた。
昨夜、神崎邸周辺で不審人物の目撃情報はなし。砂利道にも、足跡は確認されず。
つまり。その夜、屋敷に来訪者は——誰もいなかった。
では、柏木が見た“山岸”とは何だったのか。
あるいは。本当に存在したのは——
どちらだったのか。
おもしろかったら評価、ブックマークよろしくお願いします




