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ミステリー短編集  作者: 倉木元貴


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影の名前

 その電話がかかってきたのは、雨の夜だった。


 窓ガラスを叩く雨粒の音が、妙に規則正しく感じられる夜だった。時計は午後十時を少し回ったところで、私は原稿の行き詰まりに耐えかねて、ただぼんやりと机に向かっていた。


 電話のベルが鳴ったとき、誰からかはすぐに分かった。


「もしもし」


『俺だよ』


 低く、少しかすれた声。懐かしいというより、忘れようとしていた声だった。


「……久しぶりだな、悠一」


『ああ。悪い、こんな時間に』


 彼とは高校以来、まともに連絡を取っていなかった。最後に会ったのは、確か卒業式の日だ。それから十年以上、互いの人生に関わることはなかった。


「どうしたんだ」


 そう問いながら、私は無意識に姿勢を正していた。


 彼が電話をかけてくる理由など、ろくなものではない気がしたからだ。


『ちょっと、聞きたいことがあってさ』


「何だ」


 数秒の沈黙。

 その間に、雨の音がやけに大きくなった気がした。


『……あいつのこと、覚えてるか?』


「“あいつ”? 誰だ」


『ほら、三年のとき、同じクラスだった——』


 そこで、言葉が途切れる。

 妙な引っかかりを覚えた。


「名前を言えよ」


 私は少し苛立って言った。


『……名前が、思い出せないんだ』


 その言葉に、思考が一瞬止まった。


「は?」


『顔も、なんとなくしか浮かばない。でも、確かにいたんだ。俺たちのクラスに』


 声が少し震えている。

 冗談を言っている様子ではない。


「そんなわけないだろ。クラスメイトの名前くらい——」


『お前も思い出せないだろ』


 遮るように言われて、言葉が詰まる。私は反射的に、記憶を辿ろうとした。

 三年のときの教室。窓際の席。黒板。担任の顔。クラスメイトたち。名前は、いくつも浮かぶ。

 だが——一人分だけ、ぽっかりと空白があるような感覚があった。


「……いや」


 否定しようとする。だが、言葉が続かない。


『な?』


 電話の向こうで、悠一が小さく息を吐いた。


『おかしいだろ』


 確かに、おかしい。だが、それだけで終わる話のはずだった。


「で、それがどうした」


 努めて平静を装って尋ねる。すると、悠一は少し間を置いてから言った。


『そいつ、死んでるんだよ』


 心臓が、わずかに強く打った。


「……何だって?」


『事故か、自殺かは分からない。でも、卒業前にいなくなった』


 そんな話、聞いた覚えはない。


「本当か?」


『ああ。最近、実家に帰ってさ。昔のアルバム見てたら、妙なことに気づいた』


「妙なこと?」


『写真に、そいつが写ってないんだよ』


 雨音が、一段と強くなった気がした。


「写ってない?」


『クラス写真にも、文化祭の写真にも。全部』


 ありえない話だった。


「そんなわけないだろ。いたなら写るはずだ」


『だろ? でも、いないんだ』


 悠一の声は、どこか確信めいていた。


『でさ、思い出したんだよ。最後のほう、あいつ——』


 再び言葉が途切れる。


「何だ」


『……いじめられてた』


 その一言が、重く落ちた。記憶の奥で、何かが軋む。だが、はっきりとは思い出せない。


「誰にだ」


 無意識に尋ねていた。

 そして——


『俺たちだよ』


 電話越しの声が、妙に遠く聞こえた。


「……何を言ってる」


『覚えてないのか?』


 問いかけられる。

 私は必死に記憶を探る。だが、やはりそこだけが曖昧だ。まるで意図的に消されたかのように。


「……証拠はあるのか」


 ようやく絞り出した言葉だった。


『ある』


 即答だった。


『そいつの日記だ』


 息が止まりそうになる。


「どこにある」


『今、俺の手元にある』


 紙をめくる音が、電話越しに聞こえた。


『読んでやるよ』


 その声は、妙に静かだった。


『——“今日も無視された。名前を呼んでも、誰も振り向かない”』


 胸の奥がざわつく。


『——“昨日、机の中にゴミを入れられた。誰がやったのか分からない”』


 頭の奥で、何かがちらつく。


『——“先生に相談した。でも、気のせいだと言われた”』


 呼吸が浅くなる。


『——“もう、誰も信じられない”』


「やめろ」


 思わず口にしていた。


『まだある』


「やめろって言ってるだろ!」


 声が荒くなる。だが、悠一は止めなかった。


『——“あいつらの名前を書いておく。忘れないように”』


 ページをめくる音。そして——


『——“悠一、圭介、そして——”』


 私の名前が、はっきりと読まれた。

 その瞬間、記憶が弾けた。教室の隅で俯いている男子。誰も話しかけない。名前を呼ばれても、無視する。笑いながら、当然のように。


「……あ」


 声が漏れる。

 思い出した。思い出してしまった。


「……いた」


 確かに、いた。名前も顔も、全部思い出せる。だが——その名前を、口にすることができない。喉の奥で、何かが詰まる。


『思い出したか』


 悠一の声。


「……ああ」


 震える声で答える。


『なあ』


 悠一が言う。


『おかしいと思わないか』


「何がだ」


『なんで、今まで忘れてたんだろうな』


 その問いに、答えは出ない。だが、直感的に分かる。忘れていたのではない。

 ──忘れようとしていたのだ。


『でさ』


 悠一の声が、少し低くなる。


『もう一つ、気づいたことがある』


「何だ」


『日記の最後のページ』


 ページをめくる音。


 ゆっくりと。


『——“もしこれを読んでいるなら、あいつらは思い出しているはずだ”』


 背筋が冷たくなる。


『——“思い出したとき、あいつらは終わる”』


「……何だよ、それ」


 思わず笑いそうになる。


 だが、声は震えていた。


『——“もう一人、そばにいる”』


 その一文が読まれた瞬間。

 私は、違和感に気づいた。今、この電話。おかしい。


「……悠一」


『なんだ』


「お前、さっき言ったよな」


 ゆっくりと言葉を選ぶ。


「名前が思い出せないって」


『ああ』


「でも今、俺の名前を読んだ」


 沈黙。


「それに」


 さらに続ける。


「最初に言った。“俺だよ”って」


 心臓の音が、やけに大きい。


「……番号、登録してないのに」


 長い沈黙が流れる。雨音だけが、やけに鮮明に聞こえる。

 やがて。


『……ああ』


 声がした。だが、それはもう——悠一の声ではなかった。


『思い出したんだな』


 低く、どこか歪んだ声。


「……お前は」


 喉が乾く。


『遅かったけどな』


 電話の向こうで、笑い声がした。

 それは確かに、あのとき、教室の隅にいた——彼の声だった。


『じゃあな』


 通話が、切れる。それと同時に、部屋の奥で、何かが動いた気がした。

 振り向く。暗い部屋の隅。そこに——人影が立っていた。顔は見えない。だが、分かる。誰なのか。

 思い出してしまったから。


 その瞬間。電気が、ふっと消えた。雨音だけが残る。そして——何かが、こちらへ近づいてくる気配がした。

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