雪山の山荘 第5話
西園寺の死体を前に、誰もすぐには動けなかった。
白いタイルの上に広がる血は、不自然なほど均一で、まるで誰かが“丁寧に置いた”かのように静かだった。飛沫がほとんどない。刺創は首元、角度はやや下から上。自分でやるには無理がある。
藤堂が膝をつき、慎重に確認する。
指先が震えているのが分かった。
脈なし。体温は……まだ温かい。だが――
「今じゃない」
黒崎が低く言った。
その声は、暖炉の火が消えた後のように冷たかった。
全員が彼を見る。
黒崎は西園寺の手首を持ち上げる。
硬直はまだ弱い。だが、筋の張り方が妙だ。
死後硬直が“進み始めてから、ある程度時間が経っている”形。
「でも、さっきまで普通に歩いていたぞ」
俺の言葉に、黒崎は首を振る。
「歩いていたように“見えた”だけだ」
「何を言ってる」
藤堂が割って入る。
「いや……理屈としてはあり得る。死後すぐに硬直は来ない。だが筋肉の状態次第で、短時間なら“動いているように見せる”ことは……」
「そんな馬鹿な」
否定したいのに、さっきの光景が脳裏に蘇る。
西園寺は廊下で一度、壁に手をついた。呼吸も浅かった。声も弱かった。
あれは恐怖のせいだと思っていた。
だがもし――
すでに致命傷を受けていたとしたら?
「刺さっている金属片、これが問題だ」
黒崎が続ける。
「傷口の出血量が少ない。致命傷の割に、外に出た血が少なすぎる」
「つまり」
藤堂が言う。
「刺さったのは“死後”、あるいはそれに近いタイミング」
全員が息を呑む。
「じゃあ、トイレの中で刺されたんじゃないのか」
「そうだ。あの密室は“偽装”だ」
黒崎ははっきり言った。
「彼女は、トイレに入る前に死んでいた可能性が高い」
「そんな……」
御影が静かに口を開く。
「でも、それなら説明はつくわね。中から鍵がかかっていたことも、あの音も」
「音?」
俺が問う。
「倒れた音よ。すでに死んでいたなら、支えが外れた瞬間に崩れる。あのタイミングで」
つまり――
俺たちが外にいたから“今死んだように見えた”だけ。
時間が、ズレていた。
黒崎が小さく頷く。
「これで二つ目だ。相馬も岸本も、“発見時刻と死亡時刻が一致していない”」
全員の思考が、そこで一本に繋がる。
この事件は――
時間で欺いている。
リビングに戻り、三つの死を並べて考える。
暖炉の火は揺れ、壁に映る影が不気味に伸び縮みしている。
相馬。岸本。西園寺。
順番に死んでいるように見えるが、実際には“別のタイミング”で殺されている。
「じゃあ犯人は、一人でそれを全部やったのか」
藤堂が言う。
その声には、疲労と恐怖が混じっていた。
「物理的には厳しい。特に相馬の件。ここに来ていない人間を運び、密室を作るには時間と労力が必要だ」
黒崎が補足する。
「そして“見せるタイミング”の制御。音、配置、カード。複数の要素が連動している」
「つまり、共犯か」
俺が言うと、沈黙が落ちた。
御影がわずかに笑う。
その笑みは、火の揺らぎよりも薄く、冷たかった。
「ようやくそこに辿り着いたのね」
「お前、知ってるのか」
黒崎が鋭く問う。
「推測よ。でも、その方が“自然”でしょう?」
俺は全員を見回す。
残っているのは、俺、黒崎、藤堂、御影の四人。
この中に、二人以上の犯人がいる?
「断定は早い」
藤堂が首を振る。
「だが、“一人では説明しづらい現象”があるのは事実だ」
「例えば」
俺が促す。
「例えば、カードの出現。あれは“誰かが場を離れて設置した”か、“あらかじめ仕掛けられていた”かのどちらか」
「どっちにしても、全員の視線をかいくぐる必要がある」
黒崎が言う。
「あるいは、視線そのものを“誘導”した」
「誘導?」
「音だ」
黒崎の声が低く響く。
「全員がそちらに意識を向けた瞬間、別の場所で何かが起きる」
確かに、俺たちは毎回“音”に反応して動いている。
相馬のノック。
リビングの衝撃音。
トイレの倒れる音。
全部、俺たちを動かすための合図。
「まるで、舞台装置ね」
御影がぽつりと呟く。
「観客を動かすための、ね」
その言い方に、嫌な感覚が残る。
観客。
つまり、俺たちは“見せられている”。
「じゃあ、犯人はどこからそれを見ている」
俺が言った瞬間、全員が同時に天井を見上げた。
古い梁。照明。煙突の口。
だが、監視装置らしきものは見当たらない。
「物理的な監視でなくてもいい」
藤堂が言う。
「行動パターンを読めば、ある程度は予測できる」
「つまり、“俺たちのことをよく知っている人間”」
黒崎の言葉は、静かに全員へ刺さった。
夜が深くなるにつれ、空気はさらに重くなる。
暖炉の火は安定しているのに、部屋の温度とは別の“冷たさ”が満ちていく。
俺は整理する。
三年前の事件。
そこでの“順番”。
そして今の殺人の順番。
相馬、岸本、西園寺。
「共通点は何だ」
「“最初に嘘をついた”“見て見ぬふりをした”“止めなかった”」
黒崎が答える。
「じゃあ次は」
言葉にするのを、全員が躊躇する。
「“積極的に関わった人間”」
御影が代わりに言った。
視線が、自然と一人に集まりかける。
「決めつけは危険だ」
俺は遮るように言う。
「順番が本当にそれに対応している保証はない」
「でも」
藤堂が低く言う。
「“対応しているように見せている”だけでも、十分に効果はある」
「疑心暗鬼」
黒崎が頷く。
「それ自体が武器だ」
そのとき。暖炉の中で、ぱちりと大きな音が弾けた。
全員が一瞬そちらを見る。
そして――戻した視線の先で、異変に気づいた。
テーブルの上。また、カードが増えている。さっきまでなかった位置に、もう一枚。誰も動いていないはずだった。それなのに。
黒崎がゆっくりと手を伸ばす。
拾い上げる。
裏返す。
そこに書かれていたのは――
次の名前。
そして、その名前を見た瞬間、今度は別の人物の呼吸が止まった。
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