ガラスの亡霊 最終話
影が霧の中へ溶けて消えたあと、透はしばらく立ち上がれなかった。
(……俺は二十年前、この町にいた? そんなはずはない。俺は……)
だが、胸の奥に沈んだ“空白”が疼く。
(……本当に、来たことがないと言い切れるのか?)
玲奈が透の肩に手を置いた。
「三崎さん……影が言った“あの日”って……何のことなんですか」
透は首を振った。
「分からない。でも……何かを忘れている気がする。大事な何かを」
朔也が険しい表情で言った。
「三崎さん。あなたの記憶に“抜け落ちた部分”があるなら……それは意図的に消された可能性がある」
透は息を呑んだ。
「……意図的に?」
「影の事件に関わった人間は、“記憶を失う”ことがある。町の人間は、それを“影に奪われた”と言う」
透の背筋が冷たくなった。
(……影が、記憶を奪う? じゃあ俺は……)
玲奈が震える声で言った。
「三崎さん……あなた、本当に“初めて”この町に来たんですか?」
透は答えられなかった。
胸の奥で、何かがゆっくりと浮かび上がろうとしている。
透は額を押さえた。
(……思い出せ。影は“思い出せ”と言った。俺は……何を見た?何を知っていた?)
そのとき―頭の奥で、“音”がした。
カラン……
ガラス片の触れ合う音。
それと同時に、脳裏に“映像”が流れ込んできた。
――霧の中。
――泣き叫ぶ子ども。
――誰かの影。
――ガラス片の円。
――そして、倒れている男。
透は息を呑んだ。
(……これは……俺の記憶? それとも……影が見せている?)
映像はさらに続く。
――誰かが透の手を引いている。
――「見ちゃいけない」と囁く声。
――霧の奥で、影がこちらを見ている。
――そして、透は逃げている。
透は叫んだ。
「やめろ……! やめてくれ……!」
玲奈が駆け寄る。
「三崎さん! どうしたの!」
透は震える声で言った。
「……俺は……二十年前……この町で……“影を見ていた”」
朔也が目を見開いた。
「……本当ですか」
透は頷いた。
「思い出したんだ……霧の中で……誰かが倒れていて……俺は……“見てはいけないもの”を見た」
玲奈が震える声で言った。
「それって……古賀さんのお兄さんが失踪した日の……?」
透は息を呑んだ。
(……そうだ。あの日だ。俺は……あの日、この町にいた)
朔也が低く言った。
「三崎さん。あなたは“目撃者”だったんだ。二十年前の影の事件の」
透は頭を抱えた。
「でも……どうして覚えていなかったんだ……?」
玲奈が静かに言った。
「影に“奪われた”んです。あなたの記憶は……影に」
透は震えた。
(……影が、俺の記憶を奪った? じゃあ俺は……二十年前からずっと……影に“見られていた”?)
そのとき――案内所の窓が、ゆっくりと曇り始めた。
霧がガラスに張りつき、文字を描くように動く。
透は息を呑んだ。
ガラスに浮かび上がった文字は――
『お前は、あの日、嘘をついた』
透は凍りついた。
(……嘘? 俺が……嘘を? 何を……?)
霧が揺れ、遠くでガラス片が“カラン”と鳴った。
それはまるで、亡霊が“真実を語れ”と迫っているようだった。
ガラスに浮かび上がった文字――
『お前は、あの日、嘘をついた』
その言葉が、透の胸に深く突き刺さった。
(……嘘? 俺が……嘘を? 何を……?)
頭の奥で、何かがゆっくりと軋むように動く。
玲奈が震える声で言った。
「三崎さん……“あの日”って……二十年前の影の事件のことなんですか?」
透は答えられなかった。
胸の奥に沈んだ“空白”が、今にも破れそうに膨らんでいる。
朔也が低く言った。
「三崎さん。影は嘘をつかない。影が“嘘をついた”と言うなら……あなたは本当に、何かを隠している」
透は頭を抱えた。
「違う……俺は……何も……」
だが、その瞬間――
カラン……
ガラス片の音が、透の耳の奥で響いた。
同時に、“映像”が脳裏に流れ込んできた。
霧の中。
白い世界。
冷たい風。
――少年の自分が立っている。
透は息を呑んだ。
(……俺だ。子どもの頃の俺だ)
少年の透は、誰かに手を引かれていた。
その手は――大人の男の手。
(……誰だ? この男は……)
男は低い声で言った。
「見ちゃいけない。いいな、透」
透は凍りついた。
(……名前を……呼ばれた? 俺は……この町にいた? 誰と……?)
映像は続く。
霧の奥で、誰かが倒れている。
ガラス片が円を描き、その中心に――古賀町長の兄が倒れていた。
少年の透は震えている。
男は透の肩を掴み、強く揺さぶった。
「見なかった。いいな? お前は何も見ていない」
透は息を呑んだ。
(……俺は……“見なかった”と……言わされた?)
映像はさらに続く。
男は透の耳元で囁いた。
「これは町のためだ。影は町を守る。だから……黙っていろ」
透は震えた。
(……町のため? 影が……町を守る? じゃあ……この男は……)
映像の中の男が振り返る。
その顔は――古賀町長だった。
透は叫んだ。
「やめろ……! そんなはずは……!」
映像が霧に溶けて消えた。
透は膝をついた。
「……俺は……二十年前……古賀町長に……“見なかったことにしろ”と言われた……」
玲奈が青ざめた。
「お父さんが……? そんな……」
朔也は拳を握りしめた。
「古賀町長は……兄の失踪を“事故”として処理した。だが本当は……影の事件を隠すために、少年だったあなたを利用したんだ」
透は震える声で言った。
「俺は……嘘をついたんだ……“何も見ていない”と……町のために……古賀町長のために……影のために……」
玲奈が涙を浮かべた。
「三崎さん……あなたは悪くない……子どもだったんだよ……」
透は首を振った。
「でも……俺は嘘をついた。影の事件を隠した。だから……影は俺を追ってきたんだ……」
朔也が低く言った。
「三崎さん。あなたの罪は“嘘をついたこと”じゃない。“真実を忘れたこと”だ」
透は息を呑んだ。
(……真実を……忘れた? 俺は……影に記憶を奪われた? それとも……自分で封じた?)
そのとき――案内所の窓が、再び曇り始めた。
霧がガラスに文字を描く。
透は震えながら読んだ。
『思い出したな。次は――“償い”だ』
霧が揺れ、遠くでガラス片が“カラン”と鳴った。
それはまるで、亡霊が“最終章”の幕を開けろと告げているようだった。
ガラスに浮かんだ文字は、霧に溶けるようにゆっくりと消えていった。
『思い出したな。次は――“償い”だ』
透は立ち尽くしたまま、何も言えなかった。
胸の奥で、何かが静かに崩れていく。
(……俺は、嘘をついた。子どもの俺は、見たものを“なかったこと”にした。町のために。誰かのために。そして――自分のために)
その事実が、今になって重く沈んでくる。
逃げようとしても、足は動かない。
霧が足元にまとわりつき、まるで町そのものが透を掴んで離さない。
玲奈が震える声で言った。
「三崎さん……大丈夫……?」
透は答えられなかった。
大丈夫なはずがない。
(……俺は、二十年前からずっと……影に見られていたんだ)
思い出した瞬間、胸の奥にあった“空白”が音もなく崩れ落ちた。
その空白の下から現れたのは、後悔でも、罪悪感でもなかった。
――ただの、空洞。
何もない。
何も残っていない。
自分が何者だったのかさえ、もう曖昧になっていく。
朔也が透の肩を掴んだ。
「三崎さん、しっかりしろ。まだ終わっていない」
透はゆっくりと顔を上げた。
霧の向こうで、影が立っていた。
もう透の姿ではない。
町長の兄でもない。
自殺した男でもない。
影は、透の“空洞”そのものの形をしていた。
輪郭だけが揺れ、中身は何もない。
透は悟った。
(……俺はもう、逃げられない)
影は動かない。
ただ、透を見ている。
まるで、「お前はもう戻れない」と告げるように。
霧が静かに揺れた。
ガラス片が、どこかでひとつだけ鳴った。
カラン……
その音は、まるで“終わり”の合図のように響いた。
透は目を閉じた。
暗闇の中で、自分の影がゆっくりと形を変えていくのを感じた。
もう、どこにも光はなかった。
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