ガラスの亡霊 第1話
海から吹き上げる風が、古いバス停の屋根を軋ませていた。
三崎透は、肩にかけた鞄の紐を握り直し、薄暗い停留所の看板を見上げた。
「水無瀬町」
その文字は、潮風に削られ、ところどころ剥げ落ちている。
町に着いた瞬間、透は胸の奥に冷たいものが沈むのを感じた。
――ここなら、誰も俺を知らない。
そう思いたかった。
だが、海霧に包まれたこの町は、まるで外から来た者を拒むように静まり返っている。
「三崎さん、ですよね?」
声をかけられ、透は振り返った。
街灯の下に立っていたのは、明るい色のコートを着た女性だった。
柔らかな笑みを浮かべているが、その目の奥に一瞬だけ影が走ったように見えた。
「観光案内所の水無瀬です。今日からこちらに?」
「ええ。しばらく……静かな場所で暮らしたくて」
「静か、ですか」
彼女は意味深に笑った。
「この町は、静かすぎるくらい静かですよ。夜なんて、音がしないんです。……ガラスの割れる音がしなければ、ですけど」
透は眉をひそめた。
「ガラス?」
「噂ですよ。『硝子の亡霊』って呼ばれてるんです」
冗談めかして言ったはずのその言葉は、海霧の中に沈んでいくように重かった。
その夜、透は町の外れにある古い民宿に泊まった。
部屋は清潔だが、どこか人の気配が薄い。
窓の外では、波の音が遠くでくぐもっている。
――静かだ。
あまりにも静かすぎる。
眠れずに天井を見つめていたときだった。
パリン。
小さな破裂音が、夜の底から響いた。
透は跳ね起きた。
音は、民宿の向かいにあるガラス工房の方角から聞こえた気がした。
そして次の瞬間――
「誰か! 誰か来てくれ!」
悲鳴が、海霧を裂いた。
透は反射的に外へ飛び出した。
工房の扉は開いており、中から灯りが漏れている。
「大丈夫ですか!」
叫びながら駆け込んだ透の足が、何かを踏んだ。
――ガラス片だ。
床一面に、細かい破片が散らばっている。
そして、その中心に。
男が倒れていた。
胸には、鋭利なガラス片が深々と突き刺さっている。
血はほとんど流れていない。
まるで“刺された”というより、“押し込まれた”ような奇妙な傷だった。
透は息を呑んだ。
部屋の鍵は――内側から施錠されている。
窓は割れていない。
ガラス片は、なぜか“部屋の中央”にだけ散っている。
そして、被害者の胸元には、ガラス片で形作られた奇妙なマークがあった。
円の中に、斜めに走る一本の線。
水無瀬玲奈が言っていた言葉が、透の脳裏に蘇る。
――『硝子の亡霊』。
その瞬間、透は悟った。
この町は、静かではない。沈黙の下に、何かが潜んでいる。
そしてそれは、今まさに目を覚ましたのだ。
透は倒れた男のそばに膝をつき、呼吸の有無を確かめようとした。
だが、触れるまでもない。
男の瞳は虚空を見つめたまま、すでに光を失っている。
「……死んでる」
呟いた瞬間、背後で誰かが息を呑む気配がした。
「三崎さん……?」
振り返ると、入口に水無瀬玲奈が立っていた。
肩で息をし、蒼白な顔で床のガラス片を見つめている。
「どうして……こんな……」
「玲奈さん、警察を呼んでください。早く」
「は、はい……!」
玲奈は震える手でスマートフォンを取り出し、外へ駆け出していった。
その背中を見送りながら、透は再び室内を見渡した。
――おかしい。
ガラス片の散り方が、どうにも不自然だ。
普通、ガラスが割れれば、破片は“割れた場所”から放射状に飛び散る。
だが、この工房では――破片が、部屋の中央にだけ集まっている。
まるで、誰かが“撒いた”かのように。
透は立ち上がり、部屋の隅々まで目を走らせた。
窓はすべて無傷。扉は内側から鍵がかかっていた。天井にも、外部から侵入した形跡はない。
密室だ。完全な密室。
だが、密室であることよりも、透の胸をざわつかせているものがあった。
――この光景、どこかで見たことがある。
記者時代、取材で訪れたある事件現場。
被害者の胸に残された“印”。そして、不可解な密室。
その事件は、結局真相が明らかにならないまま、被害者の家族が追い詰められ、ひとりが自殺した。
透は奥歯を噛みしめた。
(また……俺は、同じ場所に戻ってきたのか)
そのとき、工房の奥から足音がした。
「……誰だ?」
透が声を上げると、暗がりからひとりの男が姿を現した。
黒い作業着に、煤のついた手。
鋭い目つきが、透を値踏みするように見つめている。
「お前、誰だ。なんでここにいる」
「三崎透です。向かいの民宿に泊まっていて、悲鳴を聞いて……」
「……そうか」
男は短く答え、倒れた被害者のそばにしゃがみ込んだ。
その表情は、怒りとも悲しみともつかない。
「この人を知っているんですか?」
「……親方だよ。俺の」
透は息を呑んだ。
「あなたは?」
「鷹野修司。ここの職人だ」
鷹野は拳を握りしめ、震える声で言った。
「親方は……自分で死ぬような人じゃない。誰かがやったんだ。そうだろ?」
透は答えられなかった。
確かに、これは自殺ではない。だが、密室である以上、犯人がどうやって出入りしたのか説明がつかない。
鷹野は続けた。
「……『亡霊』の仕業だって言うのか?」
透は眉をひそめた。
「亡霊なんて、いるわけないでしょう」
「この町では、いるってことになってるんだよ」
鷹野は立ち上がり、工房の奥を指さした。
「親方は、亡霊を見たって言ってた。“ガラスの割れる音がして、影が通り過ぎた”ってな」
透は言葉を失った。
その瞬間、外からサイレンの音が近づいてきた。
玲奈が呼んだ警察が到着したのだ。
工房の扉が開き、制服警官たちが雪崩れ込む。
その中に、ひときわ落ち着いた雰囲気の男がいた。
「水無瀬朔也さん……?」
玲奈が小さく呟いた。
男は玲奈の兄、水無瀬朔也だった。
町の名家の跡取りであり、同時に――この町の警察署の刑事でもある。
朔也は透を一瞥し、冷たい声で言った。
「あなたが第一発見者ですね。詳しい話を、署で聞かせてもらいます」
その声音には、どこか“疑い”が滲んでいた。
透は、海霧の冷たさとは別の寒気を覚えた。
――この町は、俺を歓迎していない。
そう確信した。
そして同時に、胸の奥で何かが静かに疼き始めていた。
また、事件に巻き込まれる。
いや――俺は、事件から逃げられない。
海霧の夜、硝子の亡霊は確かに姿を現した。
それは、透の過去の罪を呼び覚ます“合図”のようでもあった。
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