鏡の家の密室 第1話
白石透教授の遺体が発見されたのは、十一月二十日の午後四時過ぎだった。
通報を受けて現場に向かった佐久間刑事は、山道を登るパトカーの揺れに眉をひそめながら、助手席の探偵・朝倉理人に言った。
「……あんたを呼んだのは、まあ、上の判断だ。俺としては、民間の探偵なんぞに頼る気はないんだがね」
朝倉は窓の外に目を向けたまま、淡々と答えた。
「私は現場を見せてもらえればそれでいい。捜査の主導権を奪うつもりはありません」
「ならいいが」
パトカーは山の中腹に建つ一軒家の前で止まった。
白い外壁に、大小さまざまな鏡が埋め込まれている。
遠目には美術館のようにも見えるが、近づくほどに不気味さが増す建物だった。
「……これが“鏡の家”か」
朝倉は小さくつぶやいた。
玄関前には、すでに鑑識が集まっていた。
佐久間刑事が警察手帳を見せると、若い鑑識員が緊張した声で言った。
「遺体はリビングです。刺殺。凶器は現場に残されています。それと……現場は完全な密室でした」
「密室?」
「はい。玄関も窓も、すべて内側から施錠されていました。唯一の鍵を持っていたのは、助手の黒瀬紗月さんだけです」
佐久間刑事は鼻を鳴らした。
「つまり、犯人はほぼ決まりってわけだ」
朝倉は何も言わず、玄関の扉に目を向けた。
扉の表面にも、細長い鏡が縦に三枚並んでいる。
自分の姿が三つに分かれて映り、どれもわずかに歪んでいた。
「……嫌な家だな」
佐久間刑事がぼそりと言った。
朝倉は頷いた。
「鏡は本来、像を正確に映すものです。しかし、この家の鏡は“正確さ”を意図的に歪めているように見える」
「どういう意味だ?」
「後で説明します。まずは現場を」
二人は玄関をくぐった。
家の中は静まり返っていた。
廊下の壁にも鏡が並び、歩くたびに自分の姿が揺れる。
鏡の角度が微妙にずれているため、像がわずかに遅れてついてくるような錯覚を覚える。
佐久間刑事が不機嫌そうに言った。
「教授の趣味かね、これは」
「研究の一環でしょう。白石教授の専門は“鏡像認知”ですから」
「鏡像認知?」
「自分の姿を鏡で見たとき、人間がどのように認識するかという研究です。鏡の角度や形状によって、像の見え方は大きく変わる。その変化が、人の心理にどんな影響を与えるか……」
「そんなもん研究して何になる」
「教授は“人間の自己同一性は脆い”と言っていました。鏡はその脆さを暴く道具だと」
佐久間刑事は呆れたように肩をすくめた。
「そんなもんに人生かけてたのか、あの教授は」
「その研究が、今回の事件に深く関わっている可能性があります」
朝倉はそう言い、リビングの扉の前で立ち止まった。
扉にも鏡が貼られている。
取っ手の横に、細い文字が指で書かれていた。
――犯人は映らない。
佐久間刑事が眉をひそめた。
「これが教授のダイイングメッセージだ。血で書かれていたわけじゃないが、遺体の近くにあったからな」
「……興味深い」
朝倉は指で文字をなぞった。
「“映らない”とは、どういう意味か。鏡に映らない人間など存在しない。だとすれば、これは比喩か、あるいは……」
「あるいは?」
「鏡の“像”そのものが、犯人を隠したということです」
佐久間刑事は怪訝な顔をした。
「像が犯人を隠す? そんな馬鹿な」
「馬鹿かどうかは、これから確かめましょう」
朝倉は扉を開けた。
リビングは広く、中央に大きなガラステーブルが置かれている。
その横に、白石教授の遺体が倒れていた。
胸に深い刺し傷。
凶器と思われるナイフが、手の届く位置に落ちている。
部屋の四方の壁には、大小さまざまな鏡が貼られていた。
どれも角度が微妙に違い、映る像がわずかに歪んでいる。
朝倉は部屋を一周し、鏡の配置を確認した。
「……なるほど。これは厄介だ」
「何がだ?」
「この部屋では、鏡に映る像が“正しい位置”を示していません。像が歪むことで、実際の位置と映像の位置が一致しない。つまり――」
朝倉は鏡のひとつを指差した。
「この鏡に映る“犯人の姿”は、犯人の本当の位置を示していなかった可能性があります」
佐久間刑事は首をかしげた。
「どういうことだ?」
「たとえば、犯人が部屋の隅に立っていたとしても、鏡の角度によっては“そこに誰もいないように見える”。逆に、誰もいない場所に“人影があるように見える”こともある」
「つまり……」
「鏡が、犯人の存在を“消した”のです」
佐久間刑事は言葉を失った。
朝倉は遺体のそばにしゃがみ、刺し傷を確認した。
「刺し傷は一か所。深い。抵抗の跡はない。教授は、犯人を見ていたはずです」
「じゃあ、犯人は顔見知りか」
「それもあるでしょう。しかし――」
朝倉は鏡に残された文字を見た。
「教授は“犯人は映らない”と書いた。これは、犯人が鏡に映らなかったという意味ではない。鏡が犯人を“映さなかった”という意味です」
「鏡が犯人を映さない? そんなことが……」
「可能です。この家の鏡は、すべて“意図的に”配置されています。像が歪むように、見え方が狂うように」
朝倉は立ち上がった。
「この家そのものが、教授の研究の集大成なのです。そして――」
鏡のひとつに手を触れた。
鏡が、わずかに揺れた。
「……やはり」
「どうした?」
「この鏡、固定されていません。裏に“空間”があります」
佐久間刑事が目を見開いた。
「隠し部屋か!」
「いえ、もっと単純で、もっと厄介なものです」
朝倉は鏡の端を押した。
鏡が、ゆっくりと回転した。
裏側には、暗い空間が広がっていた。
「……回転扉だと?」
「はい。犯人はここに隠れていた可能性があります」
佐久間刑事は息を呑んだ。
「じゃあ、密室は……」
「密室ではありません。“密室に見えるように作られた部屋”です」
朝倉は鏡の裏の暗闇を見つめた。
「この事件は、鏡の家そのものが仕掛けた“錯視の殺人”です」
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