同じ夜だった
三月の雨は、どこか冷たい。
多田太陽は会社の帰り道、駅前のポストの前で足を止めた。
雨粒が赤い鉄箱を叩いて、鈍い音を立てている。
「……まただ」
ポストの投函口に、封筒が半分だけ差し込まれたままになっていた。
誰かが出そうとしてやめたのか、あるいはいたずらか。
太陽は何となくそれを引き抜いた。
白い封筒。
宛名も差出人も書いていない。
妙に軽い。
「……なんだこれ」
開けるつもりはなかった。
だが、封はされていない。
中を覗くと、折りたたまれた便箋が一枚だけ入っていた。
太陽は街灯の下でそれを開いた。
そこには、たった一行だけ書かれていた。
「あなたはまだ、あの夜を覚えていますか?」
太陽は眉をひそめた。
「あの夜?」
差出人の名前もない。裏も見たが、何も書かれていない。
悪戯だろう。
そう思った。
だが、胸の奥に、妙な引っかかりが残った。
――あの夜。
そんな言葉で思い出す出来事など、誰にでもある。
そう自分に言い聞かせ、太陽は封筒をポケットに入れて家に帰った。
翌日。
仕事から帰ると、ポストに封筒が入っていた。
白い封筒。
嫌な予感がした。
宛名はない。昨日と同じ。
太陽は無言で封を開けた。
便箋には、また一行。
「あなたは、見ていました。」
ぞくりとした。
「……誰だよ」
思わず声が出た。
だが、部屋には誰もいない。
悪戯にしては、妙だった。
差出人不明の手紙が、二日続けて届く。
しかも宛名なし。
普通なら郵便局で止められるはずだ。
つまり――誰かが直接ポストに入れている。
太陽のアパートの郵便受けに。
「……気味悪いな」
そう呟きながらも、太陽は笑い飛ばした。
誰かの悪ふざけだろう。そう思うことにした。
三通目は、その翌日だった。
太陽はもう驚かなかった。
ポストを開ける前から、そこにある気がしていた。
白い封筒。同じ字。中の便箋には、こう書かれていた。
「あなたは、止められたはずでした。」
太陽の喉が乾いた。
「……なんの話だ」
手紙を机に並べる。
一通目。
「あなたはまだ、あの夜を覚えていますか?」
二通目。
「あなたは、見ていました。」
三通目。
「あなたは、止められたはずでした。」
太陽は椅子に座り込んだ。
頭の奥に、微かな記憶が引っかかる。
夜。
雨。
道路。
そして――倒れている誰か。
太陽は急に立ち上がった。
「……まさか」
三年前。
大学を出てすぐの頃。友人たちと飲んだ帰り道。
夜の道路。
車のライト。
急ブレーキ。
そして――人が倒れていた。
事故だった。そうニュースでは言っていた。
「ひき逃げ事故」
犯人は捕まっていない。
太陽はその場にいた。だが、遠くから見ただけだった。
警察が来る前に、怖くなって帰った。
ただ、それだけ。
「……違う」
太陽は首を振った。
俺は何もしていない。ただの目撃者だ。それだけだ。
その夜のことは、誰にも話していない。
友人にも。家族にも。
なのに――太陽は手紙を見つめた。
「……誰が知ってる」
四通目は、次の日の朝だった。
ポストを開けた瞬間、太陽はため息をついた。
白い封筒。
もう見慣れてしまった。
中を開く。
便箋。そこにはこう書かれていた。
「あなたは、立っていました。」
太陽はゆっくり息を吐いた。
手紙を机に並べる。
覚えていますか。
見ていました。
止められたはず。
立っていました。
断片的な言葉。
だが、意味は一つしかない。事故の夜。
太陽は頭を抱えた。
「……なんなんだよ」
ドアのチャイムが鳴った。
びくりと肩が跳ねた。
こんな時間に誰だ。
ドアを開ける。そこに立っていたのは、知らない男だった。
四十代くらい。無表情。
「多田太陽さんですか」
「……そうですけど」
男は静かに言った。
「少し、お話を」
太陽は嫌な予感を覚えた。
「どちら様ですか」
男はポケットから手帳を出した。
警察手帳。
「警視庁の佐伯です」
太陽の背筋が凍った。
「三年前の事故の件で」
部屋の中。佐伯は机の上の手紙を見ていた。
「なるほど」
「……俺じゃありません」
太陽はすぐに言った。
「俺はただ、その場にいただけです」
佐伯は頷いた。
「ええ。そうでしょう」
「じゃあ……」
「ですが」
佐伯は一枚の写真を出した。
事故現場。倒れている男性。
その横に、一台の車。
太陽の喉が止まった。
「これ、は……」
「防犯カメラの映像から起こした写真です」
佐伯は言った。
「あなたの車ですね」
太陽の顔から血が引いた。
「……違う」
「三年前、あなたはこう証言しています」
佐伯は紙を見ながら言った。
「“遠くから事故を見ただけ”」
太陽は震えた。
「……そうです」
佐伯は静かに言った。
「ですが、あなたは、事故のすぐ側にいました」
太陽の呼吸が荒くなる。
「……俺じゃない。俺は」
言葉が出ない。
頭の奥に、映像が蘇る。
ライト。
人影。
衝撃。
ハンドル。
太陽は崩れるように座り込んだ。
「……思い出しましたか」
佐伯が言う。
太陽は震えながら言った。
「……俺が……ひいたのか」
佐伯は少し驚いた顔をした。
「え?」
太陽は顔を上げた。
「……違うのか」
佐伯は手紙を見た。
そして、ゆっくり言った。
「この手紙。あなたが書いたんじゃないんですか」
部屋の空気が止まった。
「……は?」
太陽は呆然とした。
「俺が?」
佐伯は机の手紙を並べる。
「筆跡。あなたのメモ帳と一致しています」
太陽の頭が真っ白になった。
「……そんな」
佐伯は静かに言った。
「人は、強いショックを受けると、記憶を歪めることがあります」
太陽の視界が揺れる。
事故の夜。
ライト。
人。
衝撃。
倒れた男。
太陽は震えた。
「……俺が」
佐伯は言った。
「あなたは事故を起こしました。ですが、怖くなって逃げた」
太陽の耳が遠くなる。
「そして、自分は“目撃者”だと思い込んだ」
太陽は机の手紙を見た。
覚えていますか。
見ていました。
止められたはず。
立っていました。
そして、理解した。
これは告発じゃない。
記憶だ。
自分自身が、自分に送った。忘れないように。思い出すように。
太陽の口から、笑いが漏れた。
「……はは」
涙が落ちた。
「……そうか」
佐伯は黙っていた。
太陽は言った。
「俺だったんですね」
佐伯は頷いた。
「ええ」
雨の音が聞こえる。
三年前と同じ音。
太陽は机の手紙を手に取った。
「……最後の一通は?」
佐伯が聞いた。
太陽はペンを取った。
そして便箋に書いた。
「思い出しました。」
封筒に入れる。ポストへ向かう。
雨が降っていた。
三年前と同じ夜だった。
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