あの夜は雪だった 最終話
影が消えた物置には、深い静寂だけが残った。
雪の降る音さえ、ここまで届かないように思えた。
私はしばらくその場に立ち尽くし、少女の方を振り返った。
少女は、まるで長い旅を終えた人のように、静かに息をついていた。
「これで、あなたは“あの人”から自由になった。でも、あなたの物語はまだ終わってない」
私は喉を鳴らした。
「……まだ、終わらないのか」
「うん。あなたには“選ぶ”ことが残ってる。私をどうするか。あの夜の記憶を、どう扱うか」
少女は床下のリュックを見つめた。
泥にまみれた布地。
折れた鉛筆。
小さなノート。
そして、私が埋めた“証拠”。
私は膝をつき、リュックをそっと撫でた。
その感触は、記憶の中の少女の手と同じくらい小さく、軽かった。
「……私は、君を忘れようとしたんだな」
「うん。怖かったから。でも、それは悪いことじゃないよ。人は、耐えられない記憶を雪の下に埋めるものだから」
少女の声は、責めるでもなく、慰めるでもなく、ただ事実を告げるだけだった。
「でも、あなたは思い出した。だから、私はここにいる」
私は少女を見つめた。
その姿は、雪明かりの中で淡く揺れていた。
まるで、触れれば消えてしまいそうな光のように。
「……君は、幽霊なのか?」
「さあ、どうだろうね。あなたが“私をどう見ているか”で決まるんだと思う」
少女は微笑んだ。
「私は、あなたの記憶の中の“私”。でも、あなたが忘れたくなかった“私”でもある」
私は胸の奥が締めつけられるのを感じた。
「……私は、どうすればいい」
「選ぶんだよ。私をこのまま雪の中に返すか、それとも、あなたの中に残すか」
少女は物置の扉の方へ歩き出した。
雪の白い光が、彼女の輪郭を照らす。
「どちらを選んでも、私は怒らない。あなたの人生は、あなたのものだから」
私は立ち上がり、少女の背中に声をかけた。
「……君は、どうして戻ってきたんだ」
少女は振り返り、静かに言った。
「あなたが呼んだからだよ。あなたが“思い出したい”と願ったから」
「思い出したい……?」
「うん。あなたはずっと、心のどこかで私を忘れたくなかった。だから、雪が降るたびに、あなたはあの夜を思い出しそうになってた」
少女はそっと手を伸ばした。
その手は、雪の光を透かしていた。
「でも、あなたは怖かった。だから、私を呼んだ。“思い出すため”に」
私は息を呑んだ。
「……私は、君に会いたかったのか」
「うん。会いたかったんだよ。あなたは、あの夜の私に謝りたかった。そして、守れなかった自分を許したかった」
少女の言葉は、胸の奥に静かに落ちていった。
「だから、私は来た。あなたが呼んだから」
少女は物置の外へ一歩踏み出した。
雪が舞い、白い世界が広がる。
「さあ、選んで。私は雪の向こうへ行くこともできるし、あなたの中に残ることもできる」
少女は振り返り、微笑んだ。
「どちらでもいいよ。あなたが決めてくれるなら」
私は息を吸い、少女の背中を見つめた。
――選ばなければならない。
――この物語を、どう終わらせるのか。
雪は静かに降り続けていた。
少女は雪の中に立っていた。
白い世界の中で、その姿だけが淡く光って見えた。
私は物置の入口に立ち、少女の背中を見つめていた。
「私は雪の向こうへ行くこともできるし、あなたの中に残ることもできる」
少女は振り返り、静かに微笑んだ。
その表情は、あの夜の泣き顔とはまったく違っていた。
「……君は、どうしたいんだ」
「あなたが決めてくれれば、それでいいの。私はあなたの記憶の中の“私”だから」
少女はそっと手を伸ばした。
その手は、雪の光を透かしていた。
「忘れたいなら、私は行く。覚えていたいなら、ここに残る」
私は少女の手を見つめた。
触れれば消えてしまいそうな光だった。
「……忘れたくない。君を忘れたら、私はまた逃げる気がする。あの夜からも、自分からも」
少女はゆっくりと近づき、私の前に立った。
「じゃあ、覚えていて。あの夜、あなたが私を助けようとしたことも」
少女の手は、驚くほど温かかった。
「私はもう“あの夜の私”じゃない。あなたが思い出してくれたから、私は影に縛られない」
「……君は、消えるのか」
「消えないよ。ただ、ここに留まる必要がなくなるだけ」
少女は私の手を離し、雪の中へ一歩踏み出した。
その足跡は、白い世界に静かに刻まれた。
「ありがとう。私を見つけてくれて」
少女の輪郭が、雪の光に溶けていく。
風が吹き、白い粒が舞い上がる。
「さよならじゃないよ。あなたが忘れない限り、私はここにいる」
少女は最後に振り返り、微笑んだ。
「……行ってくるね」
その瞬間、少女の姿は雪の中に溶けた。
白い世界に吸い込まれるように、静かに。
私はしばらくその場に立ち尽くしていた。
雪は降り続けている。
だが、もう怖くはなかった。
物置には、少女のリュックとノートが残っていた。
私はそれらをそっと抱きしめた。
「……忘れないよ」
雪の冷たさが、胸の奥の痛みを静かに包み込んでいく。
私はゆっくりと立ち上がり、家へ向かって歩き出した。
少女の足跡は、もうどこにもなかった。
だが、私の中には確かに残っていた。
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