あの夜は雪だった 第4話
物置の扉が、ゆっくりと軋んだ。
その隙間から覗く黒い影は、形を持たないはずなのに、確かに“誰か”の輪郭をしていた。
私は息を呑み、少女の肩越しにその影を見つめた。
「……あれは、誰なんだ」
「あなたが一番忘れたかった人。でも、あなたはあの夜、確かにその顔を見た」
少女は静かに言った。
その声は、雪の降る音よりも静かで、しかし逃げ場を与えない。
影は扉の隙間から、じっとこちらを見ている。
目は見えない。
だが、確かに“視線”があった。
私は喉を鳴らした。
「……私は、あいつを知っているのか」
「うん。あなたはあの人から逃げていた。ずっと前から」
少女の言葉が、胸の奥に沈んでいた何かを揺らした。
逃げていた。
私は、誰から?
なぜ?
記憶の底で、黒い影がゆっくりと形を成し始める。
物置の扉が、さらに開いた。
冷たい風が吹き込み、雪が舞い込む。
少女は私の手を握った。
「思い出して。あの夜、あなたは私を助けようとした。でも、あの人はあなたを“見ていた”。あなたが私を庇った瞬間から、あなたも“標的”になった」
「標的……?」
「そう。あなたは“見てはいけないもの”を見た。だから、あの人はあなたを追ってきた」
私は震えた。
少女の言葉が、記憶の奥に眠る黒い塊を刺激する。
――雪の夜。
――私は少女の手を引いて走っていた。
――後ろから、重い足音が迫ってくる。
――振り返ると、黒い影が少女に手を伸ばしていた。
――私は叫び、影に向かってスコップを振り下ろした。
――影が倒れ、少女が泣き叫ぶ。
――私は少女を抱き寄せ――。
そこで記憶が途切れた。
私は頭を押さえた。
「……私は、少女を助けた? それとも……」
「助けようとした。でも、間に合わなかった」
少女は静かに言った。
「あなたは私を殺していない。私を殺したのは“あの人”。でも、あなたはその瞬間を見た。だから、あの人はあなたを追った」
影が、扉の隙間から一歩踏み出した。
雪の上に立っているのに、足跡は残らない。
私は息を呑んだ。
「……どうして足跡が残らない」
「雪が嫌いなんだよ、あの人は。雪の上を歩くと、自分の足跡が残るでしょ? それが“証拠”になる。だから、あの人は雪の日には絶対に外に出なかった」
「じゃあ……今は?」
「あなたを見つけたから。あなたが思い出し始めたから。だから、雪の日でも来た」
影は、ゆっくりと物置の中へ足を踏み入れた。
その動きは、まるで人間のようでありながら、どこか歪んでいた。
私は後ずさった。
「……あいつは、誰なんだ」
「名前を言えば、あなたは思い出す。でも、言うのはあなた自身じゃないといけない」
少女は私の胸に手を当てた。
「ここにあるよ。あなたがずっと押し込めていた“名前”が」
影が近づく。
物置の薄暗い空気が、さらに重くなる。
私は震える声で言った。
「……あいつは……」
喉が詰まり、言葉が出ない。
だが、記憶の奥で、確かにその名前が浮かび上がっていた。
少女は優しく微笑んだ。
「大丈夫。言って。あなたがその名前を思い出せば、あの人は“形”を持つ。そして、あなたは逃げるか、向き合うか選べる」
影が、私の目の前まで来た。
黒い輪郭が、ゆっくりと人の形に変わっていく。
私は息を吸い、震える声で言った。
「……あいつは……」
その瞬間、影の中に“顔”が浮かび上がった。
私は叫びそうになった。
少女が囁いた。
「さあ、言って。あなたが一番恐れていた、その名前を」
影の輪郭が、ゆっくりと人の形を帯びていく。黒い霧のようだったものが、腕になり、肩になり、顔の位置に暗い穴が生まれた。
私は息を呑み、後ずさった。
少女は私の横で、静かに言った。
「あなたは知ってる。あの人の顔も、声も、歩き方も。忘れたふりをしてただけ」
影は一歩、物置の中へ踏み込んだ。
雪の上では足跡を残さなかったのに、木の床では確かに音がした。
ぎしり、と重い音。
私は喉を鳴らした。
「……あいつは……誰なんだ」
「あなたが言うんだよ。あなたが“名前”を呼ばないと、あの人はずっと影のまま」
影は、私の目の前まで来た。
黒い顔の中心に、ぽっかりと穴のような空白があり、そこから冷たい風が吹きつけてくるようだった。
私は震えた。
だが、記憶の奥で、確かにその顔が浮かび上がっていた。
――大きな手。
――低い声。
――雪の日には絶対に外に出ない男。
――私が子どもの頃から、ずっと恐れていた存在。
少女が囁いた。
「言って。あなたが逃げ続けた、その名前を」
私は唇を震わせながら、ようやく声を絞り出した。
「……父さん……」
その瞬間、影の顔に“目”が生まれた。
黒い穴の奥で、ぎらりと光るものがあった。
少女は静かに頷いた。
「そう。あの人はあなたのお父さん。あなたがずっと逃げていた相手」
影――父は、ゆっくりと腕を伸ばした。
その動きは、まるで私を抱きしめるようであり、同時に首を掴もうとするようでもあった。
私は後ずさった。
「……なぜ、父さんが……少女を……」
「あなたは覚えてるはず。あの夜、私が逃げていたのは“あなた”じゃなくて“お父さん”だった」
少女の声は震えていなかった。
ただ、静かに事実を告げるだけだった。
「あなたは私を助けようとした。でも、お父さんはあなたが邪魔だった。だから、あなたを追った。そして……私を殺した」
私は頭を押さえた。
記憶が、黒い水のように溢れ出す。
――雪の夜。
――私は少女の手を引いて走っていた。
――後ろから、父の怒鳴り声が響く。
――少女が転び、父が追いつく。
――私はスコップを振り上げ、父に向かって叫ぶ。
――父の腕が少女を掴み――。
――少女の叫び声が雪に吸い込まれる。
――私は少女を抱きしめ、泣き叫んだ。
――父はその場から逃げた。
――私は震える手で少女のリュックを拾い、物置へ走った。
――証拠を隠さなければ、父がまた来る。
――だから、埋めた。
――全部、雪の下に。
私は膝をついた。
「……私は……守れなかったんだな」
「うん。でも、あなたは悪くない。悪いのは、私を殺した人。そして、あなたを追い続けた人」
影――父は、ゆっくりと私に近づいた。
その足音は、雪の夜の記憶と重なった。
少女は私の前に立ち、影を見据えた。
「でもね、あなたはもう逃げなくていい。あなたは思い出した。だから、あの人は“影”に戻る」
影が、少女に手を伸ばした。
だが、その手は少女の身体をすり抜けた。
少女は影に向かって微笑んだ。
「私はもう、あの夜の私じゃない。あなたは私に触れられない」
影は苦しむように揺れ、形を失い始めた。
黒い霧が崩れ、雪のように散っていく。
私は呆然とその光景を見つめた。
「……父さん……」
影は最後に、私の方を向いた。
その目は、怒りでも憎しみでもなく、ただ空虚だった。
そして、影は完全に消えた。
物置には、私と少女だけが残された。
少女は静かに言った。
「これで、あなたは“あの人”から自由になった。でも、まだ終わりじゃないよ」
「……まだ?」
「うん。あなたには“選ぶ”ことが残ってる。私をどうするか。あの夜の記憶を、どう扱うか」
少女は私の手を取り、優しく握った。
「次で終わり。あなたが決める番だよ」
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