あの夜は雪だった 第3話
床板を持ち上げた瞬間、冷たい空気が指先を刺した。
その下には、黒く湿った土が詰まっていた。雪の下で凍りつき、固まった土だ。私は喉を鳴らし、ゆっくりと手を伸ばした。
土の表面には、何かが埋まっている形跡があった。
丸みを帯びた輪郭。布の切れ端のようなもの。
私は震える指で土を掘り起こした。
爪の間に冷たい泥が入り込み、指先が痺れる。
だが、止めることはできなかった。
背後で少女が静かに見つめている気配が、背中に刺さっていた。
やがて、土の中から“それ”が姿を現した。
小さなリュックサックだった。
子どもが使うような、淡い色の布地。
ところどころ破れ、泥にまみれている。
私は息を呑んだ。
「……これ、は」
「覚えてる?」
少女の声は、物置の冷気よりも冷たかった。
「いや……知らない。こんなもの、見たことがない」
「本当に?」
少女はリュックに触れた。
その指先は、懐かしいものに触れるように優しかった。
「これは、私のもの。あの夜、あなたが拾った」
私は首を振った。
「待て。私は……」
「でも、ここにある。あなたの家の物置の下に」
少女の言葉は、逃げ場を塞ぐように重かった。
私はリュックを開けた。
中には、いくつかの小物が入っていた。
古びたキーホルダー。
折れた鉛筆。
そして、小さなノート。
ノートの表紙には、子どもの字で名前が書かれていたが、泥で滲んで読めない。
私はノートを開いた。
ページの端は濡れて波打ち、文字はところどころ消えていた。
それでも、いくつかの言葉は残っていた。
“こわい”
“おじさんがついてくる”
“ゆきのひはにげられない”
私は手を震わせた。
「……これは、誰のノートだ」
「私のだよ」
少女は静かに言った。
「あなたは、あの夜、私を助けようとした。でも、間に合わなかった」
私は頭を押さえた。
記憶の奥で、何かが軋む音がした。
雪の夜。
白い息。
走る足音。
泣き声。
そして――倒れた小さな影。
私は息を呑んだ。
「……違う。私はそんなこと……」
「違わないよ」
少女は私の目をまっすぐ見つめた。
その瞳には、怯えも怒りもなく、ただ深い悲しみだけがあった。
「あなたは私を殺していない。でも、私が死ぬ瞬間を見た。だから、あなたは全部埋めた。見なかったことにしたかったから」
私は膝をついた。
「……私は、逃げたのか」
「うん。怖かったんだよ。でも、それは悪いことじゃない。人は、耐えられない記憶を雪の下に埋めるものだから」
少女は物置の外を指さした。
「でもね、あなたが忘れたのは“私”だけじゃない。あの夜、もうひとりいた」
「……もうひとり?」
「うん。あなたを追っていた人。あなたが一番恐れていた相手」
その瞬間、物置の外で雪を踏む音がした。
ゆっくりと、確実に近づいてくる足音。
少女の言う“足跡を残さない誰か”が、そこにいる。
私は凍りついた。
物置の外から聞こえる足音は、雪を踏む音とは思えないほど重く、ゆっくりと近づいてきた。
少女は私の横に立ち、静かに言った。
「来たよ。あなたが一番恐れていた人」
私は喉を鳴らした。
足音は物置の前で止まり、扉の向こうに“誰か”が立っている気配がした。
「……誰なんだ」
「あなたが昔、逃げていた相手。あの夜、私を追っていたのはあなたじゃない。あなたも、追われていた側だった」
少女の言葉が、胸の奥に沈んでいた何かを揺らした。
逃げていた。
私は、誰から?
なぜ?
記憶の底で、黒い影がゆっくりと形を成し始める。
物置の扉が、ぎしりと音を立てた。
私は反射的に後ずさった。
だが、扉は開かない。
ただ、外に立つ“何か”が、こちらを見つめている気配だけが濃くなる。
「……足跡が、ない」
「そう。あの人は、雪に足跡を残さない。雪の日には絶対に外に出なかったから」
「じゃあ……今は?」
「あなたを見つけたから」
影が、扉の隙間から一歩踏み出した。
雪の上に立っているのに、足跡は残らない。
私は息を呑んだ。
「……あいつは、誰なんだ」
「名前を言えば、あなたは思い出す。でも、言うのはあなた自身じゃないといけない」
少女は私の胸に手を当てた。
「ここにあるよ。あなたがずっと押し込めていた“名前”が」
影が近づく。
物置の薄暗い空気が、さらに重くなる。
私は震える声で言った。
「……あいつは……」
喉が詰まり、言葉が出ない。
だが、記憶の奥で、確かにその顔が浮かび上がっていた。
少女は優しく囁いた。
「大丈夫。言って」
影が、私の目の前まで来た。
黒い輪郭が、ゆっくりと人の形に変わっていく。
私は息を吸い、震える声で言った。
「……父さん……」
その瞬間、影の顔に“目”が生まれた。
黒い穴の奥で、ぎらりと光るものがあった。
少女は静かに頷いた。
「そう。あなたがずっと逃げていた相手」
影――父は、ゆっくりと腕を伸ばした。
その動きは、抱きしめるようであり、同時に首を掴もうとするようでもあった。
私は後ずさった。
「……なぜ、父さんが……少女を……」
「あなたは覚えてるはず。あの夜、私が逃げていたのは“あなた”じゃなくて“お父さん”だった」
少女の声は震えていなかった。
ただ、静かに事実を告げるだけだった。
「あなたは私を助けようとした。でも、お父さんはあなたが邪魔だった。だから、あなたを追った。そして……私を殺した」
私は頭を押さえた。
記憶が、黒い水のように溢れ出す。
――雪の夜。
――私は少女の手を引いて走っていた。
――後ろから、父の怒鳴り声が響く。
――少女が転び、父が追いつく。
――私はスコップを振り上げ、父に向かって叫ぶ。
――父の腕が少女を掴み――。
――少女の叫び声が雪に吸い込まれる。
――私は少女を抱きしめ、泣き叫んだ。
――父はその場から逃げた。
――私は震える手で少女のリュックを拾い、物置へ走った。
――証拠を隠さなければ、父がまた来る。
――だから、埋めた。
私は膝をついた。
「……私は、守れなかったんだな」
「うん。でも、あなたは悪くない。悪いのは、私を殺した人。そして、あなたを追い続けた人」
影――父は、ゆっくりと私に近づいた。
その足音は、雪の夜の記憶と重なった。
少女は私の前に立ち、影を見据えた。
「でもね、あなたはもう逃げなくていい。あなたは思い出した。だから、あの人は“影”に戻る」
影が、少女に手を伸ばした。
だが、その手は少女の身体をすり抜けた。
少女は影に向かって微笑んだ。
「私はもう、あの夜の私じゃない。あなたは私に触れられない」
影は苦しむように揺れ、形を失い始めた。
黒い霧が崩れ、雪のように散っていく。
私は呆然とその光景を見つめた。
「……父さん……」
影は最後に、私の方を向いた。
その目は、怒りでも憎しみでもなく、ただ空虚だった。
そして、影は完全に消えた。
物置には、私と少女だけが残された。
少女は静かに言った。
「これで、あなたは“あの人”から自由になった。でも、まだ終わりじゃないよ」
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