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ミステリー短編集  作者: 倉木元貴


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あの夜は雪だった 第2話

 少女の足跡だけが残る玄関前の雪を、私はしばらく見つめていた。

 白いはずの雪が、どこか灰色に見えた。いや、私の視界の奥に、黒いものが滲んでいるだけなのかもしれない。


 扉を閉めると、家の中は妙に静かだった。

 少女がいたはずの空気が、すでに薄れている。まるで最初から存在しなかったかのように。


 私はリビングに戻り、ソファに腰を下ろした。

 少女が座っていた場所には、わずかに体温の残り香がある気がした。だが、それもすぐに消えていった。


「……私を殺した、か」


 口に出してみると、言葉は雪のように崩れた。

 そんなはずはない。私は誰も殺していない。

 だが、少女の言葉は、私の胸の奥に刺さったままだった。


 物置の鍵。

 “埋めたもの”。

 雪の夜の断片。


 思い出そうとすると、頭の奥が鈍く痛んだ。

 まるで、そこに触れてはいけないと警告するように。


 私は立ち上がり、窓の外を見た。

 雪は相変わらず降り続けている。

 街灯の光に照らされ、白い粒がゆっくりと落ちていく。


 そのとき、視界の端で何かが動いた。


 私は目を凝らした。

 家の前の道を、誰かが歩いている。

 だが、雪の上に足跡が残っていない。


 心臓が跳ねた。


 その影は、ゆっくりと私の家の前で立ち止まり、こちらを見上げた。

 顔は見えない。

 ただ、黒い影だけが、雪の白さの中に浮かんでいた。


 私は思わず後ずさった。

 影はしばらく動かなかったが、やがて雪の中に溶けるように消えた。


「……なんなんだ」


 声が震えていた。

 少女の言っていた“足跡を残さない人間”が、本当に存在するのか。

 それとも、私の頭がおかしくなっているだけなのか。


 私は深呼吸し、落ち着こうとした。

 だが、胸のざわめきは収まらなかった。


 そのとき、テーブルの上に置かれた少女のカップが目に入った。

 紅茶はまだ温かい。

 少女が確かにここにいた証拠だ。


 私はカップを手に取り、ふと気づいた。


 カップの底に、黒い粒が沈んでいる。


「……何だ、これ」


 指先で触れると、ざらりとした感触があった。

 煤のような、土のような、正体のわからない黒い粒。


 少女は紅茶を飲んでいた。

 そのとき、彼女は何も言わなかった。

 だが、この黒い粒は、少女が持ち込んだものなのか、それとも――。


 私はカップを置き、立ち上がった。

 胸の奥で、何かが形を成し始めている。


 物置。

 あの古い鍵。

 少女の言葉。


 私は玄関へ向かった。

 靴を履き、コートを羽織る。

 外は寒い。だが、今は寒さよりも、確かめなければならないことがあった。


 扉を開けると、雪が吹き込んだ。

 少女の足跡は、まだ残っている。

 その先は、路地へと続いていた。


「……行くしかないか」


 私は足跡を追い、雪の中へ踏み出した。

 雪を踏む音が、やけに大きく響いた。


 少女の足跡は、途中で途切れていた。

 まるで、空へ消えたように。


 私は立ち止まり、周囲を見渡した。

 雪の白さが、視界を奪う。

 風が吹き、雪が舞う。


 そのとき、背後から声がした。


「……思い出した?」


 振り返ると、そこには誰もいなかった。

 ただ、雪の中に、新しい足跡がひとつだけ増えていた。


 私のものではない。

 少女のものでもない。


 その足跡は、物置の方へ向かっていた。


 足跡は、私の家の裏手にある古い物置へと続いていた。

 雪の上に刻まれたその形は、妙に浅かった。まるで、重さのない誰かが歩いたように。私は息を呑み、足跡を辿った。


 物置は、十年以上前に建てられた古い木造の小屋だ。

 今はほとんど使っていない。中には壊れた家具や工具が積まれているだけのはずだった。


 だが、少女は言った。

 “あなたは忘れてるだけ”と。


 私は物置の前に立ち、扉に手をかけた。

 鍵はかかっていない。

 ゆっくりと押し開けると、冷たい空気が流れ出した。


 中は暗かった。

 懐中電灯を取りに戻るべきかと思ったが、雪明かりがわずかに差し込み、内部の輪郭を浮かび上がらせていた。


 私は一歩踏み込んだ。


 床板がきしむ。

 埃の匂い。

 そして、どこかで嗅いだことのある、鉄のような匂い。


 私は眉をひそめた。


「……何だ、この匂い」


 物置の奥に、古い木箱が置かれていた。

 その蓋が、わずかに開いている。


 胸がざわついた。

 少女の言葉が頭をよぎる。


 “あなたが埋めたもの”


 私はゆっくりと木箱に近づき、蓋を開けた。


 中には、土のついたスコップと、黒い布切れが入っていた。

 布には、乾いた泥のようなものがこびりついている。


 私は布を持ち上げた。

 その瞬間、胸の奥で何かが弾けた。


 雪の夜。

 物置の前で、誰かと争う自分。

 叫び声。

 倒れる影。

 白い雪に落ちる黒い布。


 私は息を呑み、布を落とした。


「……嘘だろ」


 記憶は断片的だ。

 だが、確かに“何か”があった。

 私は誰かと争い、その誰かは――。


 そのとき、背後で雪を踏む音がした。


 私は振り返った。


 物置の入口に、少女が立っていた。

 白い息を吐き、静かに私を見つめている。


「思い出してきたね」


「……どうして、ここに」


「あなたが来ると思ったから」


 少女は物置の中へ一歩踏み込んだ。

 その足音は、雪の上とは違い、確かに床を踏む音だった。


「私を殺した夜のこと、覚えてる?」


「待て。私は……誰も殺してない」


「そう思いたいだけ。あなたは忘れたかったの。だから、全部雪の下に埋めた」


 少女の声は静かだった。

 責めるでもなく、怯えるでもなく、ただ事実を告げるように。


「でも、雪は溶ける。埋めたものは、いつか出てくる」


 私は頭を押さえた。

 記憶が、黒い水のように滲み出してくる。


「……君は誰なんだ。幽霊なのか? それとも……」


「私は“あなたが殺した少女”。それで十分」


 少女は微笑んだ。

 その笑顔は、どこか悲しげだった。


「でもね、私はあなたを恨んでない。ただ、思い出してほしいだけ。あの夜、何があったのか」


「……思い出したら、どうなる」


「あなたが決めること。私は逃げないって言ったよね」


 少女は物置の奥を指さした。


「まだあるよ。あなたが埋めたもの。それを見れば、全部わかる」


 私は喉が乾くのを感じた。

 少女の指す先には、床板がわずかに盛り上がった場所があった。


 そこだけ、雪が薄く積もっている。

 まるで、何かが下から押し上げているように。


 私はゆっくりと歩き出した。

 少女は黙って見つめている。


 床板に手をかけた瞬間、胸の奥で何かが叫んだ。

 開けてはいけない、と。

 だが、同時に、開けなければならないとも思った。


 私は息を吸い、床板を持ち上げた。


 その下には――。

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