表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ミステリー短編集  作者: 倉木元貴


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

15/64

あの夜は雪だった 第1話

 雪は、音を奪うために降っているのだと、ふと思った。

 仕事帰りの道を歩きながら、私はそんなことを考えていた。街灯の下で舞う雪は、光を吸い込むように白く、どこか現実味がなかった。足音さえも、雪に沈んでいく。


 家まであと数分というところで、路地の奥に人影が見えた。最初は雪の塊かと思ったが、近づくにつれ、それが小柄な少女だとわかった。薄いコート一枚で、肩を震わせている。


「……大丈夫か」


 声をかけると、少女はゆっくり顔を上げた。

 白い息の向こうに、怯えた瞳があった。


「お願い……少しだけ、隠れさせて」


 その声は、雪よりも細く、今にも折れそうだった。

 私は一瞬ためらった。知らない少女を家に入れるべきではない。だが、このまま雪の中に置いていくこともできなかった。


「……うちでよければ」


 少女は小さく頷いた。

 私は歩き出し、少女は数歩遅れてついてきた。


 家の前に着いたとき、私はふと足元の雪に目を落とした。

 そこには、二人分の足跡が並んでいた。私と少女のもの……だけではない。もうひとつ、明らかに大人の男の足跡が、私の家の前まで続いていた。


「……誰か、ついてきてたのか?」


 問いかけると、少女は唇を噛んだ。


「追われてるの。ずっと……」


 しかし、足跡は家の前で途切れていた。

 まるで、雪の中に吸い込まれたように。


 私は鍵を開け、少女を中へ入れた。暖房の効いた空気が流れ込み、少女の頬がわずかに赤みを帯びた。


「ありがとう……助かった」


「事情を聞いても?」


 少女はコートを脱ぎながら、少し考えるように視線を落とした。


「……誰かに、見られてる気がするの。ずっと前から」


「家族は?」


「いない。頼れる人も……」


 言葉は途切れがちで、どこか曖昧だった。

 私は不安を覚えながらも、少女を責める気にはなれなかった。


「とりあえず、温かいものでも飲むか」


「……うん」


 少女は小さく微笑んだ。その笑顔は、どこか懐かしいような気がした。

 私はキッチンへ向かい、湯を沸かし始めた。


 そのとき、背後から少女の声がした。


「この部屋……前にも来たことがある気がする」


 私は振り返った。


「え?」


「なんとなく、だけど。ここ、昔は棚があった?」


 少女は部屋の隅を指さした。

 確かに、以前そこには古い棚があった。去年処分したばかりだ。


「……どうして知ってる?」


「わからない。でも……思い出せそうで、思い出せないの」


 少女はこめかみを押さえ、苦しげに目を閉じた。

 私は言葉を失った。初対面のはずなのに、なぜ私の家のことを知っている?


 湯が沸く音が、やけに大きく響いた。

 私はマグカップに紅茶を注ぎながら、胸の奥に小さなざわめきを感じていた。


 少女はソファに座り、バッグを抱えていた。

 そのバッグの口が少し開き、中に古い鍵が見えた。


「それ……」


 少女は慌ててバッグを閉じた。


「これは……“証拠”なの。だから追われてる」


 証拠?

 何の?


 少女はそれ以上語らなかった。

 ただ、雪の降る音だけが、静かに部屋を満たしていた。

 紅茶を渡すと、少女は両手で包むように持ち、ゆっくりと口をつけた。

 その仕草は年齢よりも幼く見え、守らなければならない存在のように思えた。


「落ち着いたか?」


「……うん。ありがとう」


 少女は微笑んだが、その目の奥にはまだ怯えが残っていた。


「追われてるって、誰に?」


「わからない。でも……ずっとついてくるの。気配だけが、背中に張りついて……」


 曖昧な答えだった。

 だが、家の前に残っていた足跡を思い出すと、簡単に否定することもできなかった。


「警察には?」


「行けない。信じられないの」


 少女は震える声で言った。

 私はそれ以上追及しなかった。追い詰めれば壊れてしまいそうだった。


 そのとき、玄関の方から雪を踏む音がした。

 私は反射的に立ち上がった。


「……今、聞こえたか?」


 少女は青ざめ、カップを落としそうになった。


「来た……」


 私は玄関へ向かい、そっと外を覗いた。

 しかし、雪は静かに降り続けているだけで、足跡は増えていなかった。


 確かに音はした。

 だが、誰もいない。


 背筋に冷たいものが走った。


「……気のせいじゃないよな」


「違う。あの人は、足跡を残さないの」


 少女の言葉は、雪よりも冷たかった。


 私は深呼吸し、気を落ち着けようとした。

 だが、少女のバッグから何かが床に落ちる音がした。


 拾い上げると、それは古い鍵だった。

 錆びつき、使われなくなって久しい形。


 私は息を呑んだ。


「これ……見覚えがある」


 少女はゆっくりと頷いた。


「あなたの家の“物置”の鍵。昔のね」


「どうして……」


「あなたは忘れてるだけ。私、あなたの家の“あの夜”を見たの」


 胸が強く脈打った。

 “あの夜”とは何だ。私は何を忘れている?


 少女は続けた。


「あなたが“埋めたもの”を、私は見つけた。だから追われてるんじゃない。追ってきたのは……あなたの方」


 私は言葉を失った。

 少女の瞳は、怯えではなく、確信に満ちていた。


「待て。私は……」


「思い出して。あの夜、雪が降っていた。あなたは物置で誰かと争って……」


 頭の奥で、何かが軋むような感覚がした。

 雪の夜の断片。

 冷たい空気。

 誰かの叫び。

 そして、白い雪に落ちる黒い影。


 私は頭を押さえた。


「……違う。そんなはずは」


「違わないよ」


 少女は立ち上がり、玄関へ向かった。

 扉を開けると、白い風が吹き込んだ。


「あなたが思い出すまで、私は逃げない。だって、あの夜……あなたは私を殺したんだから」


「……は?」


 少女は雪の中へ一歩踏み出した。

 その姿は、白い闇に溶けるように薄れていく。


「待て!」


 私が叫んだときには、少女の姿はもうなかった。

 玄関前の雪には、少女の足跡だけが残っていた。


 私は震える手でその足跡に触れた。

 冷たさが、記憶の奥に眠る“黒い部分”をゆっくりと開いていく。

おもしろかったら評価、ブックマークよろしくお願いします

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ