あの夜は雪だった 第1話
雪は、音を奪うために降っているのだと、ふと思った。
仕事帰りの道を歩きながら、私はそんなことを考えていた。街灯の下で舞う雪は、光を吸い込むように白く、どこか現実味がなかった。足音さえも、雪に沈んでいく。
家まであと数分というところで、路地の奥に人影が見えた。最初は雪の塊かと思ったが、近づくにつれ、それが小柄な少女だとわかった。薄いコート一枚で、肩を震わせている。
「……大丈夫か」
声をかけると、少女はゆっくり顔を上げた。
白い息の向こうに、怯えた瞳があった。
「お願い……少しだけ、隠れさせて」
その声は、雪よりも細く、今にも折れそうだった。
私は一瞬ためらった。知らない少女を家に入れるべきではない。だが、このまま雪の中に置いていくこともできなかった。
「……うちでよければ」
少女は小さく頷いた。
私は歩き出し、少女は数歩遅れてついてきた。
家の前に着いたとき、私はふと足元の雪に目を落とした。
そこには、二人分の足跡が並んでいた。私と少女のもの……だけではない。もうひとつ、明らかに大人の男の足跡が、私の家の前まで続いていた。
「……誰か、ついてきてたのか?」
問いかけると、少女は唇を噛んだ。
「追われてるの。ずっと……」
しかし、足跡は家の前で途切れていた。
まるで、雪の中に吸い込まれたように。
私は鍵を開け、少女を中へ入れた。暖房の効いた空気が流れ込み、少女の頬がわずかに赤みを帯びた。
「ありがとう……助かった」
「事情を聞いても?」
少女はコートを脱ぎながら、少し考えるように視線を落とした。
「……誰かに、見られてる気がするの。ずっと前から」
「家族は?」
「いない。頼れる人も……」
言葉は途切れがちで、どこか曖昧だった。
私は不安を覚えながらも、少女を責める気にはなれなかった。
「とりあえず、温かいものでも飲むか」
「……うん」
少女は小さく微笑んだ。その笑顔は、どこか懐かしいような気がした。
私はキッチンへ向かい、湯を沸かし始めた。
そのとき、背後から少女の声がした。
「この部屋……前にも来たことがある気がする」
私は振り返った。
「え?」
「なんとなく、だけど。ここ、昔は棚があった?」
少女は部屋の隅を指さした。
確かに、以前そこには古い棚があった。去年処分したばかりだ。
「……どうして知ってる?」
「わからない。でも……思い出せそうで、思い出せないの」
少女はこめかみを押さえ、苦しげに目を閉じた。
私は言葉を失った。初対面のはずなのに、なぜ私の家のことを知っている?
湯が沸く音が、やけに大きく響いた。
私はマグカップに紅茶を注ぎながら、胸の奥に小さなざわめきを感じていた。
少女はソファに座り、バッグを抱えていた。
そのバッグの口が少し開き、中に古い鍵が見えた。
「それ……」
少女は慌ててバッグを閉じた。
「これは……“証拠”なの。だから追われてる」
証拠?
何の?
少女はそれ以上語らなかった。
ただ、雪の降る音だけが、静かに部屋を満たしていた。
紅茶を渡すと、少女は両手で包むように持ち、ゆっくりと口をつけた。
その仕草は年齢よりも幼く見え、守らなければならない存在のように思えた。
「落ち着いたか?」
「……うん。ありがとう」
少女は微笑んだが、その目の奥にはまだ怯えが残っていた。
「追われてるって、誰に?」
「わからない。でも……ずっとついてくるの。気配だけが、背中に張りついて……」
曖昧な答えだった。
だが、家の前に残っていた足跡を思い出すと、簡単に否定することもできなかった。
「警察には?」
「行けない。信じられないの」
少女は震える声で言った。
私はそれ以上追及しなかった。追い詰めれば壊れてしまいそうだった。
そのとき、玄関の方から雪を踏む音がした。
私は反射的に立ち上がった。
「……今、聞こえたか?」
少女は青ざめ、カップを落としそうになった。
「来た……」
私は玄関へ向かい、そっと外を覗いた。
しかし、雪は静かに降り続けているだけで、足跡は増えていなかった。
確かに音はした。
だが、誰もいない。
背筋に冷たいものが走った。
「……気のせいじゃないよな」
「違う。あの人は、足跡を残さないの」
少女の言葉は、雪よりも冷たかった。
私は深呼吸し、気を落ち着けようとした。
だが、少女のバッグから何かが床に落ちる音がした。
拾い上げると、それは古い鍵だった。
錆びつき、使われなくなって久しい形。
私は息を呑んだ。
「これ……見覚えがある」
少女はゆっくりと頷いた。
「あなたの家の“物置”の鍵。昔のね」
「どうして……」
「あなたは忘れてるだけ。私、あなたの家の“あの夜”を見たの」
胸が強く脈打った。
“あの夜”とは何だ。私は何を忘れている?
少女は続けた。
「あなたが“埋めたもの”を、私は見つけた。だから追われてるんじゃない。追ってきたのは……あなたの方」
私は言葉を失った。
少女の瞳は、怯えではなく、確信に満ちていた。
「待て。私は……」
「思い出して。あの夜、雪が降っていた。あなたは物置で誰かと争って……」
頭の奥で、何かが軋むような感覚がした。
雪の夜の断片。
冷たい空気。
誰かの叫び。
そして、白い雪に落ちる黒い影。
私は頭を押さえた。
「……違う。そんなはずは」
「違わないよ」
少女は立ち上がり、玄関へ向かった。
扉を開けると、白い風が吹き込んだ。
「あなたが思い出すまで、私は逃げない。だって、あの夜……あなたは私を殺したんだから」
「……は?」
少女は雪の中へ一歩踏み出した。
その姿は、白い闇に溶けるように薄れていく。
「待て!」
私が叫んだときには、少女の姿はもうなかった。
玄関前の雪には、少女の足跡だけが残っていた。
私は震える手でその足跡に触れた。
冷たさが、記憶の奥に眠る“黒い部分”をゆっくりと開いていく。
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