電話が鳴る 第15話
『あなたは、自分を誰だと思いますか?』
駅のスピーカーが繰り返した。
俺は答えられなかった。
榊原透。
その名前は確かに俺のものだ。けれど、俺の記憶の中には水城澪として生きた時間もある。三枝と過ごした記憶もある。
そして、俺とは別の「榊原透」の記憶もある。
なら俺は……誰だ。
「答えて」
澪が言った。
「早く」
時計は十九時三十一分。
秒針が進んでいる。
俺は本物の透を見る。彼は首を横に振った。
「僕の名前を答えるな」
「え?」
「それを答えたら、僕が戻ってくる」
「それが目的なんじゃないのか?」
「違う」
本物の透は笑った。
「僕はもう死んでいる」
その言葉に、三枝が初めて口を開いた。
「そうです」
「三枝……」
「あなたが戻すべきなのは、死んだ人間じゃない」
「じゃあ何を?」
「生きている人間です」
「誰が生きてる?」
三枝は澪を見る。
「彼女です」
「澪?」
「はい」
澪が首を振った。
「違う」
「何が?」
「私も、もう死んでいます」
三枝が言う。
「それは、あなたがそう思い込んでいるだけです」
澪は何も言わない。
俺は混乱した。
死んだ──生きている。
記憶。人格。身体。一体どれが本当なんだ。
そのとき、突然気づいた。この事件で、誰も「死体」を見ていない。新聞記事には、女性死亡とあった。
写真もあった。血もあった。だが、死体そのものを見た記憶がない。
「……三枝」
「はい」
「澪が死んだっていう証拠は?」
三枝が黙った。
「新聞だけだろ?」
「……」
「三枝が死んだ証拠も?」
「……」
「俺が死んだ証拠も?」
誰も答えない。
俺は笑った。
「そういうことか」
本物の透を見る。
「俺たちは、一度も死んでない」
男は目を伏せた。
「……違う」
「何が違う?」
「死んだことにされたんだ」
「誰に?」
俺はゆっくり澪を見る。
「君か?」
澪は首を振る。
「私じゃない」
「じゃあ誰だ?」
その瞬間、駅の時計が十九時三十二分を指した。
同時に、地下通路の奥から一人の老人が歩いてきた。
駅員の制服。手には古い鍵束。
俺たちを見て、ため息をつく。
「やっと終わったか」
三枝が驚いた顔をした。
「……駅長」
老人は俺を見る。
そして言った。
「榊原さん。あなたは去年の十一月六日に死んでいません」
「じゃあ、何があった?」
老人は答えた。
「あなたは──自分の死亡届を、自分で出したんですよ」
俺は絶句した。
老人は続ける。
「そして、その日から町の人間全員に、あなたが死んだと思わせた」
「なぜ?」
老人は鍵束から一本の鍵を取り出した。
番号は──17。
「あなたが、ある人間を守るためです」
その鍵を見た瞬間、俺の記憶がすべて繋がった。
番号17のコインロッカー。黒いノート。雨の日。そして──自分で書いた死亡届。
「俺は……誰を守った?」
駅長は答えなかった。
代わりに、鍵17を俺の手のひらに置いた。
「中を見れば分かります」
俺は駅員室へ向かった。
三枝と澪が後ろからついてくる。本物の榊原透は、動かなかった。
「お前は来ないのか?」
振り返ると、彼は首を振った。
「僕は、ここまでだ」
「どういう意味だ?」
「君が思い出したなら、僕は必要ない」
そう言って笑う。
その笑顔を見て、なぜか胸が痛んだ。
駅員室の奥で、古いロッカーが並んでいる。
17番の鍵を差し込む。
カチリ。
扉が開いた。
中に入っていたのは、一冊の薄いファイルだった。
表紙には名前がない。
ただ、赤い判子が押されている。
『死亡届』
中を開く。一枚目。
氏名──榊原透。
死亡年月日──2025年11月6日。
死因──不詳。
俺は息を止めた。
だが、次のページを見て、手が止まった。
死亡届の届出人。
そこに書かれていた名前は──水城澪。
「……澪?」
彼女は何も言わない。
「君が、俺を死んだことにしたのか?」
「はい」
「どうして?」
澪は俯いた。
「あなたに頼まれたからです」
「俺が?」
「あなたは言いました」
彼女はゆっくり顔を上げる。
「私に、あなたを殺したことにしてほしい、と」
俺はファイルをめくった。
二枚目には、三枝の死亡届。
届出人──榊原透。
三枚目には、水城澪。
届出人──三枝恒一。
四枚目。
そこには、見覚えのない名前があった。
『水城澪』
届出人──水城澪。
俺は眉をひそめた。
「……自分で自分の死亡届を出してる?」
澪は答えなかった。
「これ、どういうことだ?」
三枝がファイルを取り上げる。
「見せてください」
ページをめくる。
その瞬間、三枝の顔が変わった。
「……そういうことか」
「何が?」
三枝はファイルの最後のページを開いた。
そこには、全員の名前が並んでいた。
榊原透。
水城澪。
三枝恒一。
そして──俺の知らない名前。
『水城零』
「誰だ?」
三枝は答えた。
「あなたが守ろうとした人です」
「水城零?」
「はい」
澪が小さく呟いた。
「私たちの妹です」
「……妹?」
「双子ではありません」
澪は涙を浮かべた。
「私たちは三姉妹だったんです」
頭の中で、写真の「二人」が繋がった。澪が二人いたんじゃない。三人いた。
そして──そのうち一人だけが、最初から存在を消されていた。
「零は、何をした?」
俺が尋ねると、澪は首を振った。
「何もしていません」
「じゃあ、なぜ隠した?」
三枝が答える。
「零を殺そうとした人間がいたからです」
「誰が?」
三枝は俺を見た。
「あなたです」
空気が凍った。
「……俺が?」
「正確には」
三枝はファイルを閉じた。
「あなたの中にいる、もう一人の榊原透がです」
その瞬間、駅の外で、電車の警笛が鳴った。
そして、聞き覚えのある声がスピーカーから流れた。
『零を守るためなら、僕は何人でも殺す』
俺自身の声だった。
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