電話が鳴る 第14話
待合室の中にいる男から、目を離せなかった。
俺と同じ顔。同じ髪型で同じ服を着ている。
違うのは──目だった。
あの男は、俺を見ている。
初めて見る相手を見る目ではない。ずっと昔から知っている人間を見る目だ。
「……あれが、本物?」
俺が呟くと、記憶管理課を名乗る女は頷いた。
「はい」
三枝は何も言わない。
「じゃあ、俺は何なんだ?」
「あなたは、榊原透の記憶を持った人間です」
「名前は?」
女は答えなかった。
それが答えだった。
俺はガラスの扉を開けた。待合室の男は逃げない。
「久しぶり」
第一声が、それだった。
「……俺を知ってるのか?」
「もちろん」
男は笑う。
「だって、僕が君を作ったんだから」
「作った?」
「正確には、君の記憶を作った」
男は立ち上がった。
「君は僕の人生を引き継ぐために作られた」
「じゃあ、俺はコピーなのか?」
「違う」
即答だった。
「コピーなら、僕と同じ記憶を持つ」
男は自分の頭を指差す。
「君には僕が捨てた記憶だけが入っている」
「捨てた記憶……」
「だから君は、僕が忘れた人たちを覚えている」
三枝が口を開いた。
「澪も?」
男は頷く。
「澪も」
「どの澪だ?」
男は少しだけ笑った。
「そこが問題なんだ」
俺の背後で、女が言った。
「榊原さん。あなたには三つの記憶があります」
「三つ?」
「あなた自身の記憶。もう一つの榊原透の記憶。そして──水城澪の記憶です」
俺は振り返った。
「俺が、澪の記憶を?」
「はい」
その瞬間、頭の中で何かが繋がった。
雨の日の図書館。白いカウンターで澪が笑う姿。
『私は、あなたが忘れたものを覚えています』
あれは──澪の記憶だった。
俺が持っていたものではない。
「じゃあ、俺が澪を知っていたのは……」
「あなたが彼女だったからです」
「……何?」
女は静かに言った。
「あなたは十一月六日以前、水城澪の記憶を持っていました」
「でも、俺は男だ」
「身体はそうです」
言葉が出なかった。
「記憶を移した結果、人格が混ざったんです」
待合室の男が口を挟む。
「だから僕は、君を榊原透とは呼ばない」
「じゃあ、何と呼ぶ?」
男は少し考えて。
「澪」
そう呼んだ。
その瞬間、胸騒ぎがした
俺は思い出した。十一月六日。19時23分。
駅も地下。血のついた白いシャツ。
そして──倒れていたのは三枝ではなかった。
“倒れていたのは、俺自身だった。”
その傍らで泣いていた女がいた。
それが──水城澪。
俺は彼女に言った。
『僕を忘れて』
澪は泣きながら首を振った。
『無理です』
『じゃあ、僕の記憶を持って逃げて』
『どうして?』
俺は答えた。
『僕が死んでも、僕を生かすために』
そして俺は──自分の記憶を、澪に渡した。
目の前の世界が歪む。本物の榊原透が、俺に向かって手を伸ばした。
「だから返して」
その瞬間、俺は理解した。返すべきなのは記憶ではない。
“この身体そのものだった。”
「この身体を……返す?」
俺が呟くと、本物の榊原透は頷いた。
「そう」
「どうやって?」
「簡単だよ」
彼は待合室の時計を見た。
「十九時三十二分までに、君が僕の記憶を全部思い出せばいい」
「全部?」
「そうすれば、君は消える」
あまりにも簡単に言われて、逆に笑いが出た。
「消えるって……死ぬのか?」
「たぶん」
「たぶん?」
「僕にも分からない」
本物の透は、少し困ったように笑った。
「僕がこれを始めたときも、成功すると思っていなかったから」
「じゃあ、なぜ俺を作った?」
「僕が死ぬと思ったから」
「……実際には?」
「死んだよ」
その答えは、妙に静かだった。
「十一月六日、十九時二十三分。僕は一度死んだ」
「でも、ここにいる」
「これは僕の身体じゃない」
彼は自分の胸を叩いた。
「僕の記憶を保存していた器だ」
俺は息を呑んだ。
「つまり、お前も……」
「そう。僕も本物じゃない」
その瞬間、後ろから声がした。
「だから言ったでしょう」
振り返ると記憶管理課の女が立っていた。
「この事件には、犯人がいない」
彼女は静かに言った。
「死んだ人間を、別の記憶で生かそうとしただけです」
「じゃあ三枝は?」
「三枝さんも同じです」
「澪は?」
女は答えなかった。
代わりに、待合室のガラスを指差す。
そこに、いつの間にか女が立っていた。
──水城澪。
俺が何度も会った、あの澪だった。
「姉……?」
そう呟いた瞬間、澪が首を振った。
「私は妹でも姉でもありません」
「じゃあ、誰なんだ?」
「あなたです」
頭の中がごちゃごちゃになった。
澪はゆっくり近づいてくる。
「榊原さん。あなたは私の記憶を持っていたんじゃない。私が、あなたの記憶を持っていたんです」
「何を言ってる?」
「あなたが私に渡したのは、記憶だけじゃありません」
彼女は自分の胸に手を当てた。
「あなたの人格です」
俺は動けなかった。
「十一月六日、あなたは死んだ」
「でも──」
「だから私は、あなたになる必要があった」
澪の目から涙が落ちる。
「あなたを生かすために」
俺は本物の透を見る。
彼もまた、泣いていた。
「……じゃあ、俺は誰なんだ?」
澪は答えた。
「あなたは、榊原透です」
「でも、俺は……」
「ただし」
彼女は続けた。
「あなたが覚えている人生は、榊原透のものではありません」
「じゃあ誰の?」
「私のです」
駅の時計が、十九時三十一分を指した。
残り一分。
その瞬間、地下通路の照明が赤く染まった。スピーカーから、機械的な声が流れる。
『記憶統合を開始します』
『対象者──榊原透』
『人格所有権を確定します』
俺は息を呑んだ。
そして、最後の質問が流れた。
『あなたは、自分を誰だと思いますか?』
答えなければならない。
だが、ここで答えを間違えたら──誰か一人が、本当に消える。
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