電話が鳴る 第13話
電車は来なかった。
ホームの表示も変わらない。ただ、線路の向こうから風だけが吹いてくる。
「……到着するって、誰が?」
俺が尋ねると、三枝は答えなかった。その代わり、俺の手から傘を取った。
「何をする?」
「確認する」
三枝は傘を裏返した。内側に縫い付けられた文字。
『榊原透』
その横の数字。
『一』
三枝はそれを見て、顔をしかめた。
「やっぱりだ」
「何が?」
「一人目が、もう決まっている」
「誰なんだ?」
「君だ」
「俺?」
「正確には──」
三枝が傘を返してくる。
「君の記憶の中にいる榊原透だ」
また、その言葉。記憶の中の俺。本物の俺。二人の俺。何度聞いても、意味が繋がらない。
「じゃあ、今ここにいる俺は何なんだ?」
三枝は少しだけ考えた。
「それを確かめるために、四人目が来る」
その瞬間、ホームの端に、人影が現れた。駅員かと思ったが、しかし違う。長いコートに濡れた髪。そして──顔が見えない。
「誰だ?」
俺が近づくが、人影は動かない。三枝だけが、青ざめていた。
「……来るはずがない」
「知ってるのか?」
「知ってる」
「誰だ?」
三枝は答えた。
「四人目だ」
人影がゆっくり顔を上げた。そこにあった顔を見て、俺は凍りついた。
俺でもない。三枝でもない。澪でもない。知らない女だった。
ただし、その女の右手には、俺の黒い傘が握られていた。
「その傘……」
女は微笑んだ。
「あなたのではありません」
「じゃあ誰のだ?」
「私のです」
三枝が震える声で言った。
「……どうして持っている?」
女は三枝を見る。
「あなたがくれたから」
「僕が?」
「はい」
女は俺に視線を移した。
「去年の十一月六日、あなたたちは私を殺しました」
意味がわからず固まった。
「俺たちが?」
「正確には──」
女は少し笑った。
「あなたが、私を忘れたんです」
また同じ言葉。忘れた。殺した。記憶。
いったいどういうことなんだ。
「名前は?」
俺が聞くと、女は答えた。
「榊原透です」
「……は?」
「私の名前は、榊原透」
女はそう言って、自分の胸元から古い社員証を取り出した。そこには、確かに俺の顔写真がある。
ただし。名前だけが違っていた。
『榊原透』
性別──女。
生年月日──俺と同じ。
そして所属欄には、見たことのない文字。
『記憶管理課』
「そんな部署……」
俺が呟くと女は笑った。
「もちろん、存在しません」
そして社員証を裏返した。そこには一行。
『この人間を忘れた者は、最初から存在していなかったことになる。』
俺は息を呑んだ。三枝が突然、俺の腕を掴んだ。
「透、逃げろ」
「どうして?」
「彼女を見たら──」
三枝の声が震える。
「君は、自分が誰だったのかを思い出してしまう」
「記憶管理課なんて、存在しない」
俺は社員証を睨んだ。
「さっき自分でそう言ったじゃないか」
女は頷いた。
「ええ。今は存在しません」
「今は?」
「去年の十一月六日までは、ありました」
三枝が俺の腕を掴んだまま、低い声で言う。
「透、聞くな」
「どうして?」
「聞けば、思い出す」
「何をだ?」
「君が何者だったのかを」
俺は三枝の手を振り払った。
「もう十分だ。俺は自分のことを何も知らない。二人の澪がいて、二人の三枝がいて、俺まで二人いる。これ以上隠されてたら、本当に何も分からなくなる」
女は黙って俺を見ていた。
やがて、静かに口を開く。
「では、一つだけ教えます」
「何?」
「あなたは編集者ではありません」
胸がざわついた。
「……何を言ってる?」
「あなたが編集部で働いているという記憶は、本物です。でも、それはあなたの人生ではない」
「じゃあ誰の人生だ?」
「私のです」
ハッとして息が止まった。
女は社員証をしまった。
「私は、榊原透という名前の人間の記憶を管理していました」
「俺の記憶を?」
「はい」
「なぜ?」
「あなたが、忘れなければならない人だったから」
その瞬間、三枝が叫んだ。
「もうやめろ!」
女は三枝を見る。
「あなたも知っているでしょう?」
「……」
「三枝さん。あなたは十一月六日に、二度死んでいます」
三枝の顔から血の気が引いた。
「一度目は十九時二十三分」
女が言う。
「二度目は十九時三十二分」
そして俺を見る。
「その間に、あなたは一人を救った」
「誰を?」
「榊原透です」
「……俺?」
「はい」
女は首を横に振った。
「ただし、救われたのは身体ではありません」
俺の背後で、何かが落ちた。振り返ると、そこには古い録音機が置かれていた。
再生ボタンが勝手に押される。
『──もしもし』
俺自身の声。
『これを聞いているなら、記憶の移植は成功した』
俺は凍りついた。録音の中の俺が続ける。
『僕は、もうすぐ死ぬ』
三枝が目を閉じた。
『だから、僕の記憶を別の人間に移す』
「……移す?」
『そして、その人間には、僕自身だと思わせる』
録音が止まって女が言った。
「それが、今のあなたです」
「……じゃあ俺は」
声が出なかった。
代わりに女が答える。
「あなたは榊原透の記憶を持った、別の人間です」
俺は自分の手を見る。自分の顔。自分の名前。自分の人生。その全部が、自分のものではない。
だとしたら。今まで俺が「自分」だと思っていた人間は──どこにいる?
女が最後に言った。
「そして、本物の榊原透は」
地下通路の奥を指差した。
「まだ、駅の中にいます」
俺はゆっくり振り返った。そこには、誰もいないはずだった。だが、ガラス張りの待合室の中に、一人の男が座っていた。
俺と同じ顔で、俺と同じ服を着て、こちらを見ながら、笑っている。
その男が、ガラス越しに口を動かした。声は聞こえない。けれど、何を言っているのかだけは分かった。
──「やっと、返してくれるんだね」
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