電話が鳴る 第12話
傘が、ゆっくり開いていく。
骨が一本、また一本視界に映る。
黒い布が張るたび、地下通路の景色が薄くなっていった。
壁が消える。床が消える。代わりに、雨が見えた。
「閉じろ!」
もう一人の俺が叫んだ。
俺は柄を握り直した。だが、手が動かない。まるで傘そのものが、俺の意思を無視している。
「榊原さん!」
澪が駆け寄ってくる。
その顔を見た瞬間、記憶が戻った。
十一月六日。
十九時二十三分。
俺は駅の地下にいた。そこには、三枝が倒れている。その隣に澪がいる。そして俺は、二人に向かって言っていた。
『どちらか一人しか助けられない』
「違う……」
俺は頭を抱えた。
「俺は、そんなこと言ってない」
「言いました」
澪が答えた。
「あなたは、言った」
「誰を選んだ?」
彼女は答えない。もう一人の俺が代わりに言った。
「三枝だ」
「違う」
「なら、澪か?」
「違う!」
俺は叫んだ。
その瞬間、傘が完全に開いた。
──雨の音。
一瞬で地下通路が消えた。俺は駅のホームに立っていた。
時計は十九時二十三分。目の前に三枝がいる。その隣には澪。そして少し離れた場所に、もう一人の俺。
三人ではない──四人。
三枝が言った。
「透、傘を開け」
「何のために?」
「これで、元に戻せる」
「何を?」
「時間を」
俺は傘を開いた。すると、もう一人の俺が倒れた。
澪が叫び三枝が駆け寄る。
俺は──何もしていない。ただ立っているだけだった。なのに、倒れた俺の胸から血が広がっていく。
「……俺が、刺した?」
手には何もない。だが、もう一人の俺が苦しそうに笑った。
「違う」
「じゃあ誰が?」
「お前だよ」
「俺は何も──」
「そうじゃない」
彼は血を吐きながら言った。
「“お前の未来が、俺を殺したんだ”」
時計が十九時二十四分になる。
その瞬間、地面が揺れた。
三枝が俺の肩を掴む。
「透、聞いてくれ」
「何を?」
「今ここで起きていることを、誰か一人の記憶にしなければならない」
「どういう意味だ?」
「四人分の記憶を残したら、時間が戻らない」
「じゃあ──」
「だから、三人を忘れる」
俺は三枝を見て澪を見る。倒れているもう一人の俺を見る。
そして、自分自身を見た。
「誰を忘れる?」
三枝は答えなかった。ただ、俺の手から傘を取り上げた。
「それを決めるのは、お前だ」
傘を閉じたその瞬間、世界が暗くなる。
最後に聞こえたのは、澪の声だった。
『透さん』
──俺は、その声を知っている。
けれど、誰の声なのかだけが、思い出せない。
「誰の声だった?」
目を開けると、駅の地下だった。
時計は十九時二十四分。
雨の音は消えている。目の前には、もう一人の俺が倒れていた。だが、さっきまであった血はない。服にも傷はない。
「……夢?」
そう呟いた瞬間、倒れていた俺が目を開けた。
「夢じゃない」
俺は飛び退いた。
「お前……」
「時間が戻っただけだ」
男は起き上がる。
「今の記憶は、もうすぐ消える」
「待て。何が起きてる?」
「お前が選んだんだ」
「何を?」
男は少し考えてから言った。
「誰を残すか」
「俺はまだ何も選んでない」
「選んだよ」
「いつ?」
「今」
意味が分からなかった。
その時、背後から足音がした。振り返ると、三枝が立っていた。
その隣には──澪。
「二人とも、無事なのか?」
俺が尋ねると、三枝は不思議そうな顔をした。
「二人?」
「……え?」
「ここにいるのは僕と、君だけだ」
俺は澪を見る。そこには誰もいない。
「いや……さっきまでいた」
「誰が?」
「水城さんが」
三枝の顔が変わった。
「水城?」
「そうだ」
「透」
三枝が近づいてくる。
「この駅に、水城澪という人間は存在しない」
「何を言ってる」
「君が作ったんだ」
その言葉を聞いた瞬間、頭痛が走った。また記憶が崩れる。図書館。白いカウンター。澪が笑っている。
『榊原さん、また来たんですね』
次は雨の日。駅。
『私は、あなたが忘れたものを覚えています』
そして──病院。
白いベッド。そこに眠っている女。顔は見えない。誰かが俺に言っている。
『この人の名前を、覚えておいてください』
俺は答えた。
『水城澪』
そこで記憶が途切れた。
「……澪は、実在した」
俺が言うと、三枝は黙った。
「どうして否定する?」
「否定していない」
「じゃあ何なんだ?」
三枝は俺の手にある傘を見た。
「その傘を見れば分かる」
傘は閉じている。その内側には今日の日付。だが、その横にもう一つ数字が増えていた。
『一』
「これは……」
「一人目だ」
三枝が言う。
「その傘は、記憶を一人分だけ残すためのものだ」
「誰の?」
「それを決めるのは──」
三枝が俺を指差した。
「君自身だ」
「俺が?」
「そう」
三枝は静かに笑った。
「だから去年の十一月六日、君は四人の中から一人を選んだ」
「四人?」
「君、僕、澪──そして」
三枝が言葉を切る。
「もう一人の君」
俺は息を呑んだ。
「じゃあ、今ここにいる俺は……」
三枝は答えなかった。
代わりに、駅のスピーカーから放送が流れる。
『まもなく、十九時二十五分です』
その声は──俺自身の声だった。
『榊原透さん。あなたが忘れた四人目が、まもなく到着します』
遠くで電車のブレーキ音が響いた。
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