電話が鳴る 第11話
「誰を、消そうとした……?」
口にした途端、二人の三枝が同時に黙った。
澪も答えない。地下通路に、時計の音だけが響いている。
七時三十四分。
止まっていたはずの時計が、今度は逆向きに動き始めていた。
三十四。
三十三。
三十二。
「……戻ってる」
俺が呟くと、裸足の三枝が言った。
「時間が、元に戻ろうとしているんです」
「元って、どこへ?」
「十一月六日の十九時二十三分」
その言葉を聞いた瞬間、頭の奥が激しく痛んだ。
視界が歪む。
雨。駅。誰かの叫び声。そして俺の声。
『一人だけなら、助けられる』
俺はそう言った。確かに言った。だが、その場には三人いた。三枝。澪。
そして──俺。
「……三人?」
記憶の中で、俺は誰かの腕を掴んでいた。
暗い地下通路に床に血が流れている。目の前には二人の人影。一人は三枝。もう一人は──
「澪……?」
俺が呟くと、目の前の澪が顔を上げた。
「思い出したんですか?」
「いや……まだだ」
「なら、思い出さないでください」
「どうして?」
彼女は悲しそうに笑った。
「思い出したら、私は消えます」
その言葉と同時に、二人の三枝が一歩下がった。
「もう時間がない」
左の三枝が言った。
「誰か一人を選ばなければならない」
右の三枝が続ける。
「去年、あなたは選びました」
「俺が?」
「はい」
「誰を?」
二人は同時に答えた。
「三枝恒一です」
俺は眉をひそめた。
「……意味が分からない」
「あなたは、三枝を生かした」
左の三枝。
「そして、もう一人の三枝を死なせた」
右の三枝。
「だから僕たちは二人になった」
その瞬間、俺の携帯が鳴った。画面には、見覚えのない番号。
恐る恐る出る。
『榊原さん』
今度の声は、若い女だった。
「誰だ?」
『私は、水城澪です』
「……どっちの?」
女は黙って、やがて女は答えた。
『あなたが、殺さなかった方です』
心臓が強く動いた。
「じゃあ、もう一人は?」
『あなたが殺した方』
「違う」
思わず叫んだ。
『そうでしょうね』
声が笑った。
『だから、あなたは記憶を二つに分けた』
「何を言ってる?」
『殺した記憶と、殺していない記憶に』
電話の向こうで、雨音が強くなる。
『そして、その二つの記憶から──それぞれ人間を作ったんです』
俺は言葉を失った。
『あなたが今まで会っていた人たちは、死者でも幽霊でもありません』
女は静かに言った。
『あなたの中に残った、二つの記憶です』
その瞬間、目の前の二人の三枝が、同時に消えた。
そして澪も。
地下通路には俺一人しかいない。足元に落ちていた切符だけが残っている。裏返すと、文字があった。
『記憶は、人間より先に嘘をつく。』
その下に。
『だから最後に残るのは、記憶を持たない人間だ。』
俺は、その文章を読んで──自分が何者なのか、初めて疑った。
俺はポケットを探った。財布。鍵。携帯。そして、名刺入れ。中から自分の名刺を取り出す。
『榊原透 編集部』
見慣れた文字。見慣れた顔写真。けれど──顔写真を見た瞬間、違和感があった。
写真の俺は、笑っていない。そんなことではない。写真の背景に、駅の時計が写り込んでいる。
時刻は──十九時二十三分。
「……なんで」
名刺を裏返すが、何もない。もう一度、表を見る。今度は顔写真の隅に、小さな数字が見えた。
『二』
呼吸が荒くなったのがわかった。
二人いる。ずっとそう言われてきた。俺も。澪も。三枝も。けれど──もし二人いるのなら“今ここにいる俺は、どちらなのか。”
その疑問が浮かんだ瞬間、地下通路のスピーカーから声が流れた。
『まもなく、十九時二十三分です』
「……え?」
時計を見る。さっきまで十九時三十四分だった。
針が逆回転している。
三十三。
三十二。
三十一。
そして──二十三。
駅の照明が、一斉に点いた。目の前に、人が立っていた。
それは──俺だった。
同じ顔。同じ服。ただし、向こうの俺は傘を持っていない。
「ようやく会えた」
向こうの俺が言った。
「お前は誰だ?」
「それを知るために来たんだろ?」
「俺は、お前を知らない」
「そうだろうな」
向こうの俺は笑った。
「お前には、俺の記憶がない」
「……俺が忘れた方?」
「違う」
男は首を横に振った。
「俺は、お前が捨てた方だ」
その言葉に、胸がざわついた。
「何を捨てた?」
「一番大事な記憶」
男が一歩近づく。
「三枝を殺した記憶じゃない」
「じゃあ何だ?」
「三枝を殺さなかった記憶だ」
意味が分からない。
男は続けた。
「お前は去年、二つの選択をした」
「一つは三枝を殺すこと」
「もう一つは──」
男が俺の手にある黒い傘を指差した。
「その傘を開くこと」
俺は傘を見る。内側には、今日の日付。
『二〇二六年九月八日』
「この傘を開いたら、どうなる?」
男は答えなかった。代わりに俺の背後を見た。
「来たぞ」
振り返るが、誰もいない。ただ、地下通路の奥に一人の女が立っている。
──水城澪。
いや。その顔を見た瞬間、俺は理解した。この女は、今までの澪とは違う。彼女は俺を見るなり、泣きながら言った。
「榊原さん……お願い」
「何?」
「その傘を、閉じてください」
「どうして?」
「開いたら──」
彼女は震える声で続けた。
「あなたが、どちらの榊原透なのか決まってしまうから」
その瞬間、向こうの俺が笑った。
「違う」
「決まるんじゃない」
男は静かに言った。
「“戻るんだ”」
時計の針が、十九時二十三分を指している。
そして俺の手の中で、黒い傘が、ひとりでに開き始めた。
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