第5話「好きだって、気づいてしまった」
十一月になると、日が暮れるのが早くなった。
五時を過ぎると空が暗くなって、放課後の帰り道に街灯がつく。夏の名残なんてもうとっくになくて、コートの襟を立てて歩く季節になっていた。湊は最近、自分の気持ちを持て余していた。
好きだ、とはずっと思っていた。でも「好き」という言葉は、言った瞬間に何かを変えてしまう。変わってしまったら、今ある当たり前が消えるかもしれない。そう思うと踏み出せなかった。蓮に言ったら「臆病なだけだろ」と言われる気がして、言わなかった。
十一月の最初の週、ひなたのバレー部が地区大会に出た。湊は知らなかった。ひなたから聞いていなかったし、聞く機会もなかった。結果を知ったのは、翌週の月曜日、りこから話しているのを偶然聞いたからだ。
「一回戦で負けたんだよね」
りこが静かな声で言っていた。
「ひなた、悔しそうだった?」
「……うん。でも何も言わなかった」
湊はそれを聞いて、ひなたの席を見た。ひなたはいつも通り笑っていた。誰かと話して、笑って、何も変わらないように見えた。でも湊には、少しだけ違って見えた。笑い方が、いつもより少し丁寧だった。
昼休み、湊はひなたに声をかけた。自分から声をかけることはあまりない。だから少し勇気がいった。
「バレー、地区大会あったんだな」
ひなたが湊を見た。一瞬ひなたは、驚いた顔をした。
「……りこから聞いたの?」
「うん、たまたま」
「そっか…」
ひなたは少し間を置いた。
「負けたよ。一回戦で」
「そうか」
「悔しかった。すごく」
湊は何も言わなかった。言葉を探したが、見つからなかった。ひなたは続けた。
「でも私、補欠だったから。出てもいないのに悔しがるのって、なんか違う気がして。だから誰にも言わなかった」
「それは違わない」
湊が言った。ひなたが顔を上げた。
「補欠でも同じチームだろ。悔しいのは当たり前じゃないか」
ひなたはしばらく湊を見ていた。
「……なんで朝倉くんはそういうこと、すっと言えるの」
「すっとは言えてない。考えた」
「考えてそれが出てくるのが、すごいんだよ」
湊は何も言えなかった。ひなたは小さく笑った。さっきより、少し柔らかい笑い方だった。
「ありがとう。なんか、少し楽になった」
「それ、前にも言ってた」
「また言いたくなったの」
二人でそれきり黙った。教室の窓から冬の光が差し込んでいた。薄くて、でも確かにある光だった。
その週の木曜日、帰り道でひなたが急に立ち止まった。公園の前だった。銀杏が並んでいて、葉がほとんど落ちていた。地面が黄色かった。
「きれい」
ひなたが言った。
「そうだな」
「写真撮っていい?」
「別に俺に聞かなくていい」
ひなたは笑って、スマホを取り出した。地面の黄色い葉を何枚か撮った。空を撮った。並んでいる銀杏を撮った。
「ねえ湊も撮る?」
「いい」
「なんで?」
「俺、写真はあまり撮らないから」
「もったいない。こういうの、後で見たくなるよ」
湊は黄色い地面を見た。
「覚えてるからいい」
ひなたがスマホを下ろして、湊を見た。
「覚えてる?」
「なんとなく」
「何を?」
湊は少し考えた。
「今日みたいな日のこと。別に特別なことがなくても」
ひなたはしばらく湊を見ていた。それから、また空を見上げた。
「いいな、それ」
風が吹いて、残っていた葉が何枚か落ちた。二人は並んで、それを見ていた。
「ねえ湊って、私のこと。友達だと思ってる?」
唐突だった。湊は答えるのに、少し時間がかかった。
「……思ってる」
「そっか」
ひなたは前を向いた。
「私も」
それだけで歩き出した。湊も並んで歩いた。でも湊は、さっき一瞬だけ答えに迷ったことを、ひなたに気づかれなかっただろうかと思った。友達だと思っている。それは本当だ。でも、それだけじゃない。そのことも、本当だった。
夜、湊は蓮に電話をかけた。LINEじゃなくて、電話にしたのは文字にしたくなかったからだ。
「どうした?電話なんて」
蓮は出てすぐそう言った。
「話したいことがあって」
「ひなたのこと?」
「なんでわかる」
「他にないだろ、今のお前には」
湊は少し黙った。
「好きだ、たぶん」
「たぶん?」
「たぶんじゃなくて、確実に」
蓮は何も言わなかった。湊は続けた。
「でも言えない。言ったら変わる気がして」
「変わるのが怖いのか?」
「怖い、というより……今がちょうどいい。このままでいたい気持ちもある」
「それは優しさじゃなくて、逃げだぞ」
湊は黙った。蓮の声が続いた。
「ひなたがどう思ってるか、考えたことあるか」
「ある」
「どう思う」
「……わからない」
「わからないなら、確かめるしかないだろ」
「お前は単純だな」
「シンプルなんだよ。お前が複雑にしすぎる」
湊は窓の外を見た。夜の空に、星がいくつか見えた。冬の星は鮮明で、輪郭がはっきりしていた。
「もう少しだけ、ひなたのことを考える」
「考えすぎるな」
「わかった」
「いや、わかってないと思うけど」
「わかったって」
蓮は小さく笑った。珍しかった。
「まあ、お前のペースでいいけど。ただ、ひなたにも時間があることは覚えておけ」
電話が切れた。湊はスマホを置いて、天井を見た。 蓮の最後の言葉が、頭の中で繰り返された。
――ひなたにも時間がある。
当たり前のことだった。でもなぜかその言葉が、胸のどこかに刺さったまま抜けなかった。
翌日の朝教室に入ると、ひなたが窓際の席で外を見ていた。いつもの席で、いつもの朝だった。でも湊には、昨日と少し違って見えた。ひなたが振り向いて、「おはよ」と言った。
「おはよ」
湊は自分の席に座った。教科書を出しながら、決めていた。まだ言わない。でも、いつかは言う。このままでいいとは、もう思わない。それだけのことだったけど、湊には十分だった。
窓の外に、冬の光があった。薄くて、でも真っすぐな光だった。
—続く—




