第6話「後から来る、いい日のこと」
三月が来ると、学校の空気が少し切なくなる。
廊下に卒業生へのメッセージボードが飾られて、三年生の下駄箱が少しずつ空になっていく。自分たちはまだ卒業じゃない。でもこの一年が終わることは確かで、それがなぜかひどく惜しかった。
湊は三月になってから、ずっとそわそわしていた。蓮には「顔に出てる」と言われた。りこには「なんか落ち着かない感じがする」と言われた。ひなたには何も言われなかった。それが一番気になった。
三月の第一週、放課後の図書室。今年度最後の読書係の当番だった。三田さんが「今年もありがとう」と言って、返却本の整理を任せてくれた。湊とひなたは向かい合って、いつも通りの作業をした。本を棚に戻す。背表紙の番号を確認する。それだけの仕事だ。一年間、同じことを繰り返してきた。
「最後だね」
ひなたが言った。
「そうだな」
「来年も読書係やる?」
「どうしようか。まだ決めてない」
「私はまたやろうと思ってる」
湊はひなたを見た。
「続けるの」
「うん。なんか、好きになったから。この場所が」
ひなたは棚を見渡した。並んだ背表紙、薄い夕方の光、三田さんのカウンター。
「最初は係だからって感じだったけど、気づいたら好きになってた」
湊は手を止めた。
「気づいたら、か」
「そう。そういうのって、あるじゃん。いつから好きになったかわからないけど、気づいたら好きだったって」
ひなたは何気なく言っていた。本の背表紙を指でなぞりながら、独り言みたいに。湊は返事をしなかった。できなかった、というのが正確だった。
作業が終わって、図書室を出た。廊下は静かで、ほとんどの生徒は帰ったあとだった。遠くから吹奏楽部の音が聞こえた。この音も、春になるとメンバーが変わる。
下駄箱まで並んで歩いた。外に出ると、夕方の空が広かった。三月の空は澄んでいて、遠くまで見渡せた。西の方がオレンジで、東はもう薄い紺色になっていた。
「わー、きれいな空」
ひなたが空を見上げた。
「うん、そうだな」
「あっ、写真撮っとこ」
ひなたがスマホを取り出した。湊はその隣に立って、空を見た。十一月の公園のことを思い出した。黄色い銀杏の葉と、ひなたがスマホを向けていた光景。
「やっぱり湊は撮らないの」
「覚えてるから、いい」
ひなたが湊を見た。
「もう、また同じこと言う」
「…同じだから」
「ねえ聞いていい?何を覚えてるの」
湊は少し間を置いた。
「こういう日のことを」
「どういう日のこと?」
答えるのに少し時間がかかった。
「…ひなたと一緒にいる日」
ひなたがスマホを下ろした。湊は空を見たまま続けた。
「一年間、いろんな日があって。図書室で本の話をした日も、文化祭の日も、帰り道も、全部なんとなく覚えてる。写真がなくても」
ひなたは何も言わなかった。
「それが全部、ひなたがいる日のことで…」
湊はそこで一度止まった。言葉を探した。準備してきたわけじゃない。でも、今言わなければいけないと思った。蓮の言葉が頭にあった。――ひなたにも時間がある。
「好きだ」
空を見たまま言った。
「ずっと言えなかった。変わるのが嫌で、このままでいたくて、それで言えなかった。でもこのままでいたいって思ってること自体、ひなたのことが好きだからだって、最近ようやくわかった」
風が吹いた。ひなたはまだ何も言わなかった。湊はそっちを見られなかった。しばらく二人とも黙っていた。
「……湊」
ひなたが静かに言った。
「私ね…」
湊は息を止めた。
「ずっと、湊が何考えてるかわからなかった。話してると楽しくて、一緒にいると落ち着いて、でもそれ以上のことを考えてくれてるのかどうか、全然わからなくて」
「それは…」
「わかりにくすぎだよ、もう」
ひなたの声が、少し笑っていた。
「…ごめん」
「謝らなくていいよ。ただ、私も同じ気持ちだったから」
湊はひなたを見た。ひなたは空を見ていた。横顔が、夕焼けの色をしていた。
「気づいたら、好きになってた。いつからかわからないけど」
さっき図書室で言っていた言葉と、同じ言葉だった。
「だから、こっちも言えなかった。友達のままでいたかったし、でも友達じゃ足りない気もしてたし、ずっとそれを繰り返してた」
ひなたがようやく湊を見た。目が合った。
「湊が言ってくれてよかった」
静かな声だった。
「…遅くなってごめん」
「ううん、遅くないよ。ちょうどよかった」
「ちょうど?」
ひなたが少し笑った。
「一年かけて、ちゃんとわかったから。お互い」
湊は何も言えなかった。言葉より先に、何かが緩んだ気がした。ずっと張っていた何かが、静かにほどけていく感じだった。
「来年も読書係、一緒にやろ」
ひなたが言った。
「うん」
「帰り道も、一緒に帰ろ」
「うん」
「LINEも、打っては消すのやめてよ」
湊は少し驚いた。
「気づいてたの」
「返信が遅いときと早いときの差がすごいから」
「……気をつける」
ひなたが笑った。さっきまでより、ずっと柔らかい笑い方だった。
二人で並んで、帰り道を歩き始めた。特別なことは何もなかった。いつもと同じ道で、同じ夕方で、同じ二人だった。でも何かが、確かに変わっていた。
「湊って、今どんな気持ち?」
ひなたが歩きながら聞いた。湊は少し考えた。
「後から気づく、って言ったろ」
「あー、前に言ってたやつだ」
「楽しいって気づくの、後から来るって」
「言ってた」
「今日のことも、たぶんそうだと思う。もう少ししたら、すごくいい日だったってわかる気がする」
ひなたはしばらく黙って、それから言った。
「じゃあ、後で教えて」
「何を?」
「気づいたときに。いい日だったって」
湊は前を向いたまま、「うん」と言った。
街灯がついた。並んで歩く二人の影が、前に長く伸びた。春はもう、すぐそこまで来ていた。
―終わり―




