第4話「当たり前が、こわれる前」
八月が終わると、二人の間に「当たり前」ができていた。
月曜の朝、登校すると互いに「おはよ」と言う。水曜の放課後は読書係で図書室に行く。木曜はひなたのバレー部の練習が早く終わるから、帰りが重なることが多い。金曜の夜はたいていLINEでやりとりをする。特に約束したわけじゃない。気がついたらそうなっていた。湊はその「当たり前」が好きだった。
好きだと気づいたのは、九月の半ばに蓮に言われたからだ。
「お前、最近機嫌いいな」
「そうか」
「そうだよ。前は朝もっと死んだ顔してた」
「失礼だな」
「事実だろ」
蓮は淡々と言って、弁当を開けた。湊は何も返さなかった。でも否定もしなかった。
九月の図書室は、夕方になると少し暗くなるのが早かった。水曜の読書係、湊とひなたは向かい合って作業をしていた。返却された本を棚に戻す、それだけの仕事だ。
「この本、知ってる?」
ひなたが一冊の文庫を差し出した。表紙に見覚えがなかった。
「読んでない」
「私も。でも背表紙だけで買っちゃいそうな感じ、しない?」
「うーん、わかる気もする」
「でしょ!」
ひなたは本を棚に戻しながら、「私ってジャケ買いが多くて」と言った。
「よく失敗するの?」
「うーん、半々。でも失敗した本も、なんか愛着あるんだよね」
「なんか変わってる」
「そうかな?」
「うん、いい意味で」
そう言ってから、少し直接的すぎたかと思った。でもひなたは「ありがとう」と笑っただけだった。司書の三田さんがカウンターで電話をしている。外では風が吹いていて、窓の隙間から秋の匂いが入ってきた。
「ねぇ湊って、将来どうしたいとかある?」
唐突だった。
「急だな」
「進路のやつ、来週じゃん。先生に何書くか迷ってて」
「文系理系の選択?」
「それもあるし、大学どのへんとか。なんか急に現実になってきた感じがして」
湊は本を一冊棚に差し込んだ。
「国語か社会系で、出版か編集に行けたら、とは思ってる」
「本が好きだから?」
「まあ」
ひなたは少し考えた。
「いいな、具体的で」
「ひなたは」
「わかんない。やりたいことが多すぎて、ひとつに絞れない」
「それはいいことじゃないの」
「でも書類には一個しか書けないじゃん」
湊は少し黙って、それから言った。
「今決めなくてもいいんじゃないか。方向性だけ書いておけばいい」
ひなたが湊を見た。
「方向性、か」
「別に今、全部決める必要はないんじゃないのかな」
「……なんだか、少しだけ楽になった」
ひなたはそう言って、手元の本に視線を戻した。窓の外で、木の葉が一枚落ちていった。
十月になった。学校では中間テストが近づいて、廊下の雰囲気が少し張り詰めてきた。湊も放課後は図書室か自習室で勉強することが増えた。木曜の帰り道が、一度なくなった。ひなたからLINEが来たのは夕方だった。
『今日ごめん、りこと話すことあって』
『別にいいよ』と返した。
『また来週ね』とひなたが言った。
『うん』 と返した。
それだけだった。問題はなかった。でも湊は帰り道を一人で歩きながら、いつもより道が長く感じた。
――当たり前になりすぎた。
そう気づいた。当たり前になると、なくなったときに初めて大きさがわかる。それはいいことなのか、悪いことなのか、よくわからなかった。
テスト前の一週間、湊はひなたとほとんど話さなかった。話さなかった、というより、タイミングがなかった。ひなたは実行委員の残務もあって、昼休みも放課後も人に囲まれていた。湊は自分から輪に入るのが得意じゃない。LINEも、用もないのに送る理由が見つからなかった。蓮に「最近ひなたと話してないな」と言ったら、「自分から行けばいいだろ」と返ってきた。
「用がない」
「作ればいい」
「作るのが苦手」
蓮はため息をついた。
「お前は待ちすぎる」
「……そうかな」
「そうだよ。向こうも同じだったら、永遠に距離縮まらないぞ」
湊はその言葉を聞いて、何も言えなかった。蓮の言う通りだと思ったからだ。
テスト最終日の午後。廊下でひなたとすれ違った。ひなたは友人と話していて、湊に気づいてはいたが、会話の途中だったから軽く手を挙げるだけだった。湊も同じように手を挙げた。それだけだった。別に喧嘩したわけじゃない。嫌いになったわけでもない。ただ少し前まで当たり前だったことが、少しだけ当たり前じゃなくなっていた。廊下の人混みの中で、ひなたの後ろ姿が遠ざかっていく。
――声、かければよかった。
そう思ったときには、もう人の波に消えていた。湊は自分の下駄箱の前に立って、少しの間そこにいた。特に何かがあったわけじゃない。大げさなことでもない。でもなんとなく今日は、帰り道が一番長かった。
その夜、湊は机の前に座って進路希望票を眺めた。来週の月曜が提出期限だった。名前の欄と、志望の方向の欄がある。ひなたに「方向性だけ書けばいい」と言った手前、湊自身もちゃんと書かなければいけなかった。ペンを持って、少し考えた。書いた。窓の外は静かで、秋の夜の空気が冷たかった。スマホを見ると、ひなたからメッセージが来ていた。
『テスト終わったね。お疲れ』
湊は少し間を置いてから、返した。
『お疲れ。どうだった』
『英語やばかった。湊は?』
『うーん、まあまあかな』
『へー、いいな。ねえ、来週って暇?』
湊は画面を見た。
『まあ、暇だけど』
『じゃあ一緒に帰ろ。久しぶりに』
湊はその文字を見て、知らないうちに息を吐いていた。
『うん』 と返した。
それだけで、さっきまで長かった夜が少し短くなった気がした。
月曜の朝。ひなたが窓際の席から「おはよ」と言った。「おはよ」と湊は返した。それだけで、また当たり前が戻ってきた。当たり前は壊れやすい。でも、思ったより戻ってくるのも早かった。
湊はそれを、少しだけ覚えておこうと思った。
—続く—




