第3話「サイダーと、夕焼けと」
六月が終わると学校の空気が変わる。
廊下に文化祭の実行委員の名前が貼り出されて、教室のあちこちで「何やる?」という声が聞こえるようになる。体育館では放課後に吹奏楽部が練習を始めて、窓を開けていると校庭まで音が届いた。夏が来る前の、浮き足立った季節。
湊はその雰囲気があまり得意ではなかった。何かに乗っかるのが上手くない。でも今年は少しだけ違った。ひなたが文化祭実行委員に立候補したからだ。
「湊も来ればよかったのに」
放課後、教室でひなたがそう言った。実行委員の初回ミーティングから戻ってきたところで、少し興奮した顔をしていた。
「俺は向いてない」
「なんで決めつけるの」
「今までの経験から」
ひなたは笑った。
「じゃあ手伝って。内側じゃなくてもいいから、当日とか」
「……考える」
「もう、即答してよ」
蓮が横から「こいつは考えるって言ったら大体やる」と言った。ひなたが「ほんとに?」と蓮を見た。蓮は「知らんけど」とそっぽを向いた。湊はその会話を聞きながら、「やる」と言っていた。自分でも少し驚いた。
七月の文化祭まで、準備期間は三週間あった。クラスの出し物は「縁日カフェ」に決まった。射的や輪投げを並べて、飲み物を出す。ひなたが提案したアイデアで、クラスの賛成多数で通った。放課後の準備が始まると、教室の空気が少し変わった。普段あまり話さない人間同士が机を並べて作業する。蓮でさえ、紙を折る手を止めずに「これでいいか」と隣の女子に聞いていた。湊はひなたと一緒に、景品のリストを作る係になった。
「これ、予算オーバーじゃない?」
ひなたがリストを指さした。
「削るならここか、ここじゃない?」
「でもこっちは見栄えが大事で……」
「じゃあここを数減らして、差額をこっちに回すとか」
ひなたが湊を見た。
「なんか得意だね」
「こういうの、嫌いじゃない」
「なんか、理系っぽい」
「…いや、文系だけど」
「じゃあ文系っぽい」
「いや、どっちだよ」
ひなたが笑った。湊も笑った。窓の外では夕立の気配があって、空が少し緑がかっていた。夏の匂いがした。
七月の第一週、終業式の前日に文化祭があった。朝から教室はざわついていた。机を動かして、準備した射的のセットを並べる。ひなたが陣頭に立って指示を出していた。大きな声ではないのに、なぜか全員がひなたの方を向いた。
「すごいな」
湊が蓮に言うと、蓮は「お前が言うか」と返した。
「俺は何も言ってない」
「顔に出てる」
湊は黙った。蓮はそれ以上何も言わなかった。
文化祭が開会すると、廊下に人が流れてきた。縁日カフェは思ったより人気で、射的の前には常に列ができていた。湊は景品管理と会計を担当した。ひなたは接客を担当していて、お客さんに声をかけるたびに笑っていた。
昼過ぎの少し人が引いた時間帯に、ひなたが湊の横に来た。
「交代、ありがとう。お疲れ」
「別に」
「飲み物、持ってきた」
サイダーの入った紙コップを渡された。用意していた飲み物の余りだろう。
「ありがとう」
二人で並んで、廊下の端に立った。サイダーを一口飲んだ。炭酸が舌の上で弾けた。甘くて、少し酸っぱかった。
「楽しかった?」
ひなたが前を向いたまま聞いた。
「……まあ」
「えー、何。まあ、って」
「……まあしいて言うなら、思ったより悪くなかった」
「それが湊の褒め言葉?」
「そう」
ひなたが笑った。
「じゃあ最高評価だ」
湊はサイダーを見た。炭酸の泡が、上に向かって細かく上っていた。
「手伝ってよかった」
自分で言ってから、少し恥ずかしくなった。でもひなたは笑わなかった。
「私も」
ただそれだけ言って前を向いた。廊下を人が通り過ぎていく。どこかから音楽が聞こえた。賑やかな午後だった。それなのに、二人の間だけが少し静かだった。
文化祭が終わり、片付けが終わったのは夕方だった。クラス全員で教室を元に戻して、流れ解散になった。蓮は陸上部の後輩に呼ばれてすぐに行ってしまった。りこも別の友人と帰るらしく、ひなたに「先行くね」と言った。気がつくと、湊とひなたが二人で教室に残っていた。
「帰ろうか」ひなたが言った。
「うん」
二人で廊下に出て、下駄箱に向かった。夕方の学校は静かで、さっきまでの喧騒がまるで嘘みたいだった。外に出ると、空が赤かった。夕立は結局降らなかったらしく、空気だけが少し湿っていた。
「ねえ湊、今日どうだった」
「さっき聞いた」
「もう一回聞く」
湊は少し考えた。
「楽しかった、たぶん」
「たぶん?」
「うん。確信を持って言えない」
「えっ、なんで?」
「俺って、楽しいって気づくの、遅いから。後になってから気づく」
ひなたが湊を見た。
「へー、後から気づくんだ」
「そう」
少し間があった。
「じゃあ、後で気づいてね」
ひなたはそう言って、前を向いた。湊はその横顔を見た。夕焼けの中で、ひなたの輪郭が少し滲んで見えた。
――気づいてる。
心の中でそう思った。でも言わなかった。言葉にしたら、何かが変わってしまう気がして。今はまだ、このままでよかった。
その夜、蓮からLINEが来た。
『文化祭、楽しそうだったな』
『普通だった』
『嘘つくな』
『……まあ』
少し間があって、蓮からまたメッセージが来た。
『なあ湊、お前ひなたと帰ったろ』
『たまたま』
『嘘つくな。何回たまたまが続くと思ってんだ』
湊はスマホを置いた。返す言葉がなかった。代わりにひなたとのトーク画面を開いた。最後のメッセージは今日の昼前で、景品の数の確認だった。何か送ろうかと思って、やめた。送りたいことはあった。でも、何を送ればいいかわからなかった。
『今日ありがとう』
打ったけど消した。
『楽しかった』
打って、また消した。結局、何も送らなかった。でも翌朝、ひなたからメッセージが来ていた。
『昨日楽しかった。ありがとね』
湊は朝の光の中でその文字を見て、少しだけ笑った。
――先に言われた。
悔しいような、嬉しいような、妙な気持ちだった。
『俺も』 とだけ返した。
それで十分だった。
—続く—




