↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
きみといる日  作者: 空野 翔


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
2/6

第2話「好きかもしれない」

 五月になると教室の空気が変わる。


四月のぎこちなさが少しずつほぐれて、誰がどこに座るか、誰と昼を食べるか、そういうことが自然と決まってくる。朝倉湊のクラスもそうだった。席が近い者同士でグループができて、放課後の過ごし方もだいたい固まってきた。湊は蓮と帰ることが多かった。蓮は陸上部で、週に三日は練習がある。その日は湊一人で帰る。特に寄り道もせず、まっすぐ家に向かう。それが湊のいつもの五月だった。

 今年も同じはずだった。


 「朝倉くん、これ知ってる?」

 昼休み、ひなたが話しかけてきたのは、教室の隅で本を読んでいたときだった。手に持っていたのは文庫本だった。辻村深月の、『かがみの孤城』。

 「読んだことある」

 「どうだった?」

 「……最後、泣いた」

 ひなたが少し目を見開いた。それから、嬉しそうに笑った。

 「でしょ。私も。電車の中で読んでて、やばかった」

 「電車で読むのは自業自得では」

 「そうなんだけど!」

 ひなたは笑いながら、湊の机の端に腰を預けた。自然な動作だった。距離が近い、と湊は思ったが、特に何も言わなかった。

 「他にも好きな本ある?教えてよ」

 「なんで」

 「趣味合いそうだから」

 それだけの理由だった。でも湊は少し考えて、作家の名前を二人挙げた。ひなたは「メモしていい?」と言いながらスマホを取り出した。

 「読んだら感想言う」

 「……別にいいけど」

 「絶対言う」

 ひなたはそう言って、自分の席に戻っていった。白石りこが「何話してたの?」と聞いているのが遠くに聞こえた。湊は文庫本に視線を戻した。さっきまで読めていたはずの本なのに、なぜか文字が頭に入ってこなかった。


 その週の金曜日、夜にいきなりLINEが来た。知らない名前だと思ったら、一行目に「読書係の橘です」とあった。

 『読んだよ。最初の章から泣きそうになった』

 湊はしばらくスマホを見つめた。メッセージが来るとは思っていなかった。というより、連絡先を交換したことをほとんど忘れていた。係の連絡用に全員と交換したから、ひなたとも繋がっていたというだけのことだ。

 『どの本?』 と返した。

 『「ツナグ」。朝倉くんが言ってた本』

 『早いね』

 『一気読みしたら夜中の二時になってた』

 湊は思わず笑った。声には出さなかったが、口の端が上がった。

 『それは自業自得では』

 『もう、またそれ言う!』

 短いやりとりが続いた。本の話から、好きな場面の話になって、気がつくと一時間が経っていた。最後に『おやすみ』と送ると、すぐに『おやすみ!また話そ』と返ってきた。湊はスマホを置いて、天井を見た。

 ――また、か。

 その一言が、なんとなく温かかった。


 五月の半ば、蓮が練習の日にひなたと帰りが重なった。偶然だった。下駄箱のところで鉢合わせて、二人とも少し驚いた顔をした。

 「帰り、同じ方向?」

 ひなたが聞いた。

 「桜木町の方」

 「私も。じゃあ一緒に帰ろ」

 それだけで決まった。特に断る理由もなかった。二人で校門を出て、住宅街の道を歩いた。夕方の光が長くなっていて、二人の影が前に伸びていた。

 「部活、入ってないの?」ひなたが聞いた。

 「去年まで文化系のやつにいたけど、今年は入ってない」

 「なんで?」

 「なんとなく」本当は理由があった。でも、まだうまく言葉にできなかった。ひなたは追いかけなかった。ただ「そっか」と言って、前を向いた。

 「ひなたは?」

 聞いてから下の名前で呼んでしまったことに気がついた。ひなたが少し湊を見た。

 「……橘、さん」

 「あ、ごめん」

 「別にいいよ。ひなたで」

 「……じゃあ、ひなたは」

 「バレー部。でも補欠なんだよね、ずっと」

 「それは」

 「悔しいよ。でも先輩が上手くて。しょうがないかなって思いながら、でも思ってないって感じ」

 湊は少し考えた。

 「複雑だね」

 「複雑!そう、複雑なんだよ」

 ひなたが笑った。なぜか嬉しそうだった。

 「ちゃんとわかってくれる人、あんまりいないんだよね。大丈夫だよって言われるか、頑張れって言われるかで」

 「……それは答えになってない」

 「でしょ」

 二人でしばらく歩いた。信号が赤になって、立ち止まった。夕暮れの中で、ひなたは少し空を見上げた。

 「朝倉くんって、話しやすい」

 唐突に言われた。湊は何も答えられなかった。

 「なんか、ちゃんと聞いてくれる感じがして」

 信号が青になった。二人で歩き出した。湊は前を向いたまま、「そう?」とだけ言った。それ以上の言葉が、出てこなかった。


 その夜、湊は自分の部屋で今日のことを順番に思い返した。下駄箱で鉢合わせたこと。並んで歩いたこと。ひなたが「話しやすい」と言ったこと。特別なことは何もなかった。ただ、帰り道が一緒だっただけだ。でも。湊は気づいていた。ひなたが笑うたびに、少し視線がそちらに向くこと。LINEに返信が来るのを、無意識に待っていること。今日の帰り道が、いつもより短く感じたこと。

 ――これ、か。

 湊はそう思った。言葉にしたら陳腐になりそうで、心の中でもうまく言えなかった。ただ、ひなたのことが気になっている。それだけは、はっきりしていた。スマホを見ると、蓮からLINEが来ていた。

 『今日の帰り、誰かと一緒だったろ。見たぞ』

 湊はしばらく考えてから返した。

 『気のせい』

 『嘘つくな』

 湊はスマホを伏せた。窓の外に、五月の夜風が吹いていた。


 翌週の月曜日。朝、教室に入ったとき、ひなたが窓際の席から湊を見た。

 「あっ、おはよ!」

短く、ただそれだけ。でも湊は、それだけで今日一日がいい日になるような気がした。

 ――気のせいじゃない、たぶん。

 湊は自分の席に座り、鞄から教科書を取り出した。好きだ、とはまだ言えなかった。でも、何かが動き始めていることはもうわかっていた。

 それだけで今は十分だった。


—続く—


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。