第2話「好きかもしれない」
五月になると教室の空気が変わる。
四月のぎこちなさが少しずつほぐれて、誰がどこに座るか、誰と昼を食べるか、そういうことが自然と決まってくる。朝倉湊のクラスもそうだった。席が近い者同士でグループができて、放課後の過ごし方もだいたい固まってきた。湊は蓮と帰ることが多かった。蓮は陸上部で、週に三日は練習がある。その日は湊一人で帰る。特に寄り道もせず、まっすぐ家に向かう。それが湊のいつもの五月だった。
今年も同じはずだった。
「朝倉くん、これ知ってる?」
昼休み、ひなたが話しかけてきたのは、教室の隅で本を読んでいたときだった。手に持っていたのは文庫本だった。辻村深月の、『かがみの孤城』。
「読んだことある」
「どうだった?」
「……最後、泣いた」
ひなたが少し目を見開いた。それから、嬉しそうに笑った。
「でしょ。私も。電車の中で読んでて、やばかった」
「電車で読むのは自業自得では」
「そうなんだけど!」
ひなたは笑いながら、湊の机の端に腰を預けた。自然な動作だった。距離が近い、と湊は思ったが、特に何も言わなかった。
「他にも好きな本ある?教えてよ」
「なんで」
「趣味合いそうだから」
それだけの理由だった。でも湊は少し考えて、作家の名前を二人挙げた。ひなたは「メモしていい?」と言いながらスマホを取り出した。
「読んだら感想言う」
「……別にいいけど」
「絶対言う」
ひなたはそう言って、自分の席に戻っていった。白石りこが「何話してたの?」と聞いているのが遠くに聞こえた。湊は文庫本に視線を戻した。さっきまで読めていたはずの本なのに、なぜか文字が頭に入ってこなかった。
その週の金曜日、夜にいきなりLINEが来た。知らない名前だと思ったら、一行目に「読書係の橘です」とあった。
『読んだよ。最初の章から泣きそうになった』
湊はしばらくスマホを見つめた。メッセージが来るとは思っていなかった。というより、連絡先を交換したことをほとんど忘れていた。係の連絡用に全員と交換したから、ひなたとも繋がっていたというだけのことだ。
『どの本?』 と返した。
『「ツナグ」。朝倉くんが言ってた本』
『早いね』
『一気読みしたら夜中の二時になってた』
湊は思わず笑った。声には出さなかったが、口の端が上がった。
『それは自業自得では』
『もう、またそれ言う!』
短いやりとりが続いた。本の話から、好きな場面の話になって、気がつくと一時間が経っていた。最後に『おやすみ』と送ると、すぐに『おやすみ!また話そ』と返ってきた。湊はスマホを置いて、天井を見た。
――また、か。
その一言が、なんとなく温かかった。
五月の半ば、蓮が練習の日にひなたと帰りが重なった。偶然だった。下駄箱のところで鉢合わせて、二人とも少し驚いた顔をした。
「帰り、同じ方向?」
ひなたが聞いた。
「桜木町の方」
「私も。じゃあ一緒に帰ろ」
それだけで決まった。特に断る理由もなかった。二人で校門を出て、住宅街の道を歩いた。夕方の光が長くなっていて、二人の影が前に伸びていた。
「部活、入ってないの?」ひなたが聞いた。
「去年まで文化系のやつにいたけど、今年は入ってない」
「なんで?」
「なんとなく」本当は理由があった。でも、まだうまく言葉にできなかった。ひなたは追いかけなかった。ただ「そっか」と言って、前を向いた。
「ひなたは?」
聞いてから下の名前で呼んでしまったことに気がついた。ひなたが少し湊を見た。
「……橘、さん」
「あ、ごめん」
「別にいいよ。ひなたで」
「……じゃあ、ひなたは」
「バレー部。でも補欠なんだよね、ずっと」
「それは」
「悔しいよ。でも先輩が上手くて。しょうがないかなって思いながら、でも思ってないって感じ」
湊は少し考えた。
「複雑だね」
「複雑!そう、複雑なんだよ」
ひなたが笑った。なぜか嬉しそうだった。
「ちゃんとわかってくれる人、あんまりいないんだよね。大丈夫だよって言われるか、頑張れって言われるかで」
「……それは答えになってない」
「でしょ」
二人でしばらく歩いた。信号が赤になって、立ち止まった。夕暮れの中で、ひなたは少し空を見上げた。
「朝倉くんって、話しやすい」
唐突に言われた。湊は何も答えられなかった。
「なんか、ちゃんと聞いてくれる感じがして」
信号が青になった。二人で歩き出した。湊は前を向いたまま、「そう?」とだけ言った。それ以上の言葉が、出てこなかった。
その夜、湊は自分の部屋で今日のことを順番に思い返した。下駄箱で鉢合わせたこと。並んで歩いたこと。ひなたが「話しやすい」と言ったこと。特別なことは何もなかった。ただ、帰り道が一緒だっただけだ。でも。湊は気づいていた。ひなたが笑うたびに、少し視線がそちらに向くこと。LINEに返信が来るのを、無意識に待っていること。今日の帰り道が、いつもより短く感じたこと。
――これ、か。
湊はそう思った。言葉にしたら陳腐になりそうで、心の中でもうまく言えなかった。ただ、ひなたのことが気になっている。それだけは、はっきりしていた。スマホを見ると、蓮からLINEが来ていた。
『今日の帰り、誰かと一緒だったろ。見たぞ』
湊はしばらく考えてから返した。
『気のせい』
『嘘つくな』
湊はスマホを伏せた。窓の外に、五月の夜風が吹いていた。
翌週の月曜日。朝、教室に入ったとき、ひなたが窓際の席から湊を見た。
「あっ、おはよ!」
短く、ただそれだけ。でも湊は、それだけで今日一日がいい日になるような気がした。
――気のせいじゃない、たぶん。
湊は自分の席に座り、鞄から教科書を取り出した。好きだ、とはまだ言えなかった。でも、何かが動き始めていることはもうわかっていた。
それだけで今は十分だった。
—続く—




