第1話「きみの声が窓から来た」
四月の教室は、まだ誰のものでもない。
朝倉湊は新しいクラスの席に座り、配られたばかりの時間割表をぼんやり眺めた。名前も知らないクラスメイトたちが少しずつ席を埋めていく。去年と同じ顔もいれば、初めて見る顔もある。窓の外では桜が散りかけていた。もう少ししたら完全に葉桜になる。毎年そのタイミングで新学期が始まるのが、なんとなく好きだった。始まりの季節に、終わりかけの花。どこかちぐはぐで、でも不思議と似合っている。
「湊、こっちこっち」
後ろから声がして振り返ると、神谷蓮が手を挙げていた。去年も同じクラスだった親友で、クールな見た目に反して細かいことによく気がつく。今日は湊より早く登校していたらしく、すでに自分の席に荷物を置いていた。
「また隣か」
「運命じゃないの」
蓮はそう言いながら教科書を机に並べ始めた。笑いもせずに言うから、冗談かどうかいつもよくわからない。湊は苦笑して前を向いた。
そのとき、教室の扉が開いた。
最初に目に入ったのは、明るい声だった。
「あ、まじで同じクラスじゃん!よかった~」
扉のところに女子が二人いた。一人は背の低い丸顔の子で、もう一人は――湊は自分でも気づかないうちに、そちらを見ていた。橘ひなた、という名前を知ったのはすぐあとのことだ。担任の先生が出席を呼んだとき、「はい」と返事をした声で。明るくて、通る声だった。
席は湊から三つ斜め前で、窓側だった。朝の光がそちらから差し込んでいたから、ひなたがときどき目を細めるのが見えた。眩しそうにしながら、それでも外を見るのをやめない。
――変な子だな。
湊はそう思って、視線を黒板に戻した。
担任は菊池という四十代の男性で、最初の授業は自己紹介と係決めだった。
「読書係、やりたい人」
菊池が言うと、ひなたがすぐ手を挙げた。湊も少し考えてから手を挙げた。本が好きというより、静かな仕事がよかった。
「橘と、朝倉か。よろしく」
それだけだった。特別なことは何もなかった。
放課後、湊は図書室に寄った。蓮に「部活は?」と聞かれたが、「ちょっと用がある」とだけ答えた。嘘ではない。読書係として本の場所を確認しておこうと思っていた。図書室に入ると、司書の三田さんがカウンターで作業をしていた。静かな部屋に、本の匂いがある。湊は好きな空間だった。棚の間を歩いていると、文庫本のコーナーで誰かと鉢合わせた。
ひなただった。
「あっ」
二人同時に声が出た。
「読書係、ちゃんと来たんだ」
ひなたが先に言った。驚いたような、でも少し面白そうな顔で。
「それはお互いさまでしょ」
「そうだね」
ひなたは笑った。屈託がなかった。湊はなんとなく視線を外して、棚のタイトルを眺めた。
「好きな作家とか、いる?」
唐突にひなたが聞いた。
「……重松清、かな」
「わかる。なんか、身近なんだよね。遠い話じゃなくて」
「そう」
「私は辻村深月。ちょっと切ないやつが好きで」
湊は棚から目を離して、ひなたを見た。彼女は本の背表紙を指でなぞりながら話していた。本を探しているんじゃなくて、ただ触れているみたいに。
「切ないのが好きなの」
「うん。後味が悪くないやつ。読み終わったあとに、ちょっと泣けて、でも元気になれるやつ」
「それは切ないのが好きなんじゃなくて、立ち直れるのが好きなんじゃ」
ひなたが湊を見た。少しだけ目を丸くして、それから笑った。
「……そうかも」
短い沈黙があった。静かな沈黙だった。
「じゃあ、またね」
ひなたはそう言って、本を一冊抜き取り、カウンターへ歩いていった。湊はその背中を、一秒だけ見ていた。
家に帰ると、母が夕食を作っていた。
「新しいクラス、どうだった?」
「普通」
「友達できそう?」
「わからない」
湊は自分の部屋に入り、カバンを床に置いた。机の椅子に座って、窓の外を見る。空はもう暗くなりかけていて、電線に鳥が一羽止まっていた。さっき図書室でのことを、なんとなく思い返した。別に大したことじゃない。初日に少し話しただけで、クラスメイトで、読書係で、それだけだ。でも。
「立ち直れるのが好きなんじゃ」
自分で言ったことが、なぜか頭に残っていた。ひなたが笑った顔も。
――気にしすぎか。
湊はそう結論づけて、教科書を開いた。でも結局、最初のページを読み終えるのに、いつもの三倍の時間がかかった。
翌朝、登校すると教室の窓が開いていた。ひなたがすでに席にいて、外を見ていた。風が少し吹いて、彼女の髪が揺れた。湊は自分の席に座り、前を向いた。三つ斜め前の窓際が、なぜか今日は少し眩しかった。
—続く—




