第9話 王宮剣術大会、予選
王宮剣術大会の告知が出たのは、八月の初めだった。
毎年秋に開催されるこの大会は、王宮に縁のある者であれば貴族も平民も参加できる。騎士の登竜門として知られており、過去の優勝者には後に近衛騎士団長になった者もいる。
今年は例年と違う点が一つあった。
女性の参加が、初めて認められた。
発端はヴィクトール公爵の進言だった。公爵がなぜそのような進言をしたのか、王宮内では様々な憶測が飛び交った。しかし公爵本人は理由を語らなかった。
アリシアは告知を見た瞬間、フィーナに言った。
「出る」
「……予想していました」
「反対する?」
「いたしません」
「父上に話してくる」
「旦那様はすでにご存知です」
「え?」
「女性の参加を認めさせたのは、旦那様です」
アリシアは少し目を丸くした。
それから、窓の外を見た。
「……そうか」
静かに言った。
「父上が」
「はい」
アリシアはしばらく黙った。
父が何も言わずに、そういうことをする人だということは知っていた。しかし改めて知ると、胸に何かがこみ上げる気がした。
「フィーナ」
「はい」
「今夜の夕食、父上の好きなものを頼めるかしら」
「……既に手配しております」
「早い」
「アリシア様が出ると言うのは分かっておりましたので」
アリシアはフィーナを見た。
フィーナは無表情だった。いつも通り。
「ありがとう、フィーナ」
「……どういたしまして」
参加申し込みの翌日、稽古場に噂が広まった。
ヴァルトハイム公爵令嬢が大会に出場する、という噂だった。
稽古場の反応は二つに分かれた。
一つは、あの令嬢が出るなら見物だという反応。月水金に稽古場に通うアリシアを見てきた者たちは、その実力を知っていた。
もう一つは、令嬢が剣術大会に出るなど場違いだという反応。こちらは主に、アリシアの稽古を見たことがない者たちだった。
ガルム師範は両方の声を聞きながら、何も言わなかった。
ただ、アリシアの次の稽古日に言った。
「大会に出ますか」
「はい」
「予選の対戦相手は選べません。誰が来ても対応できますか」
「できます」
「怪我をさせてしまった場合は」
「加減します」
「加減できますか、本気で来る相手に対して」
アリシアは少し考えた。
「加減しながら勝てます」
師範は一秒黙った。
「……言い切りましたね」
「事実なので」
「……そうですね」
師範は小さく笑った。
「一つだけ、お願いがあります」
「なんですか」
「決勝まで進んでください」
「努力します」
「努力ではなく、必ず」
アリシアは師範を見た。
「師範が、そこまで言うのですか」
「あなたが決勝に上がれば、この大会の意味が変わります。女性が剣術大会の決勝に上がる、それだけで、来年以降が変わる」
アリシアは静かに聞いていた。
「私はあなたに剣術大会で優勝してほしいのではありません。ただ——」
師範は言葉を選んだ。
「あなたが本気で戦う姿を、できるだけ多くの人間に見せてほしいのです」
しばらく沈黙があった。
「……分かりました」
アリシアは静かに答えた。
「決勝まで行きます」
予選当日の朝、アリシアはいつもより早く起きた。
中庭で朧月を百本振った。フィーナが隣で見ていた。
「緊張していますか」
「していない」
「……顔がいつもと同じなので、分かりません」
「いつもと同じだから、していないのよ」
「……そうですか」
「フィーナは緊張している?」
フィーナは一秒止まった。
「……していません」
「顔がいつもと同じだから、分からないわ」
「……それはアリシア様の言葉をそのまま返しているのでは」
「そう」
アリシアは朧月を納刀した。
「行きましょう」
予選の会場は王宮の大広間だった。
普段は謁見に使われる場所だが、今日は床に砂が敷かれ、四方に観覧席が設けられていた。観覧席にはすでに人が集まり始めていた。
アリシアが入場した瞬間、観覧席がざわめいた。
白金の髪。薄紫の瞳。動きやすく仕立てた衣装に、腰に朧月を提げた姿だった。令嬢には見えなかった。しかし令嬢以外の何かにも見えなかった。
参加者の中に、アリシアを見て笑った者がいた。若い騎士見習いだった。
隣の仲間に言っていた。
令嬢が出るのか、見世物じゃないんだがな、と。
フィーナがその声を聞いた。
視線を飛ばした。
騎士見習いは急に背筋が寒くなって、黙った。
予選は一対一のトーナメント形式だった。
アリシアの初戦の相手は、二十代の騎士見習いだった。体格が良く、剣歴は六年と聞いた。観覧席からは、令嬢の相手には気の毒だという声が聞こえた。
どちらに対してそう思っているのか、言った本人も分かっていなかっただろう。
審判の合図で、試合が始まった。
相手が踏み込んできた。
大振りだった。力任せの、速い一撃だった。素人ならば面食らう速度だった。
アリシアは動じなかった。
一歩、横にずれた。
相手の剣が空を切った。
崩れた体勢を戻す前に、アリシアの朧月が相手の胴を打っていた。
静かな打撃だった。強くない。しかし正確だった。
一本。
観覧席が、静かになった。
相手はもう一度構えた。今度は慎重に、じりじりと間合いを詰めてきた。
アリシアは待った。
相手が踏み込んだ瞬間、また動いた。今度は前に。相手の懐に入り込んで、朧月の柄で相手の手首を打った。
相手の木刀が、床に落ちた。
二本。
試合終了だった。
観覧席がざわめいた。
アリシアは相手に礼をした。完璧な礼だった。
相手は呆然としていたが、やがて礼を返した。その顔に、悔しさと、何か別のものが混じっていた。
二戦目の相手は、三十代のベテラン騎士だった。
初戦を見ていたらしく、最初から慎重な構えをしていた。目つきが違った。令嬢を相手にしている目ではなく、強い相手を見る目だった。
アリシアは少し、気持ちが上がった。
この目の相手の方が、やりがいがある。
試合が始まった。
相手は慎重だった。間合いを保ち、アリシアの動きを見極めようとしていた。経験があった。力任せには来なかった。
アリシアは待った。
一合、打ち合った。
相手が強かった。力が違う。体重が違う。正面から受ければ弾かれる。
だから受けなかった。
流し、崩し、隙を作る。前世で何十年もやってきたことだった。相手が強いほど、崩した時の隙が大きい。
三合目に、隙が生まれた。
朧月が、相手の肩口を打った。
一本。
相手は顔色を変えた。
今度はより慎重になった。動きが小さくなった。それはつまり、隙も小さくなるということだ。
アリシアは間合いを詰めた。
相手が反応した。
打ち合いが三度続いた。四度目に、アリシアは踏み込みを変えた。深く、速く。
相手が反応しきれなかった。
朧月が、喉元に止まった。
二本。
試合終了だった。
観覧席が、今度は沈黙した後に声を上げた。
どよめき、という種類の声だった。
予選三戦目の相手を見た時、観覧席から声が上がった。
相手は近衛騎士団の若手筆頭、レオン・アッシュだった。二十五歳。大会三連覇中の実力者で、今年の優勝候補の一人だった。
なぜ予選でこの相手と当たるのか、という声があった。
組み合わせの妙だった。あるいは、誰かの意図だったかもしれない。
アリシアには関係なかった。
強い相手の方が、良い。
レオン・アッシュはアリシアを見た。
令嬢だった。七歳の、白金の髪の令嬢だった。しかし目が違うことには、すぐに気づいた。
「令嬢」
「はい」
「本気で行きます」
「どうぞ」
「怪我をさせてしまっても」
「怪我はしません」
レオンは少し目を細めた。
「……強気ですね」
「事実を言っただけです」
「そうですか」
レオンは構えた。
本気の構えだった。全員に対して同じ構えをする、という姿勢が見えた。相手を選ばない。それが強者の礼儀だとでも言うように。
アリシアは構えた。
試合が、始まった。
最初の一合で、観覧席が静まり返った。
速かった。両方とも。しかし質が違った。レオンの速さは鍛錬で積み上げた速さで、アリシアの速さは何か別のものから来ていた。
二合、三合、打ち合った。
レオンが押していた。力が違いすぎる。体重が違いすぎる。しかしアリシアは崩れなかった。流して、かわして、逃げるのではなく、受け流して距離を作る。
五合目。
レオンが大きく踏み込んだ。
速かった。これまでで一番速かった。
アリシアは流せなかった。
受けた。
弾かれた。
朧月が大きく跳ね上がり、体勢が崩れた。
一本、レオン。
観覧席から声が上がった。やはり無理だったという声も聞こえた。
アリシアは体勢を立て直した。
朧月を持ち直した。
崩れた髪を、片手で払った。
少し、笑った。
剣士の笑みだった。
フィーナは観覧席から見ていた。
隣にエリナが座っていた。エリナは固唾を飲んでいた。
「フィーナさん、大丈夫ですか」
「何がですか」
「アリシア様が一本取られて」
「大丈夫です」
「でも」
「今、笑われました」
「え?」
「アリシア様が笑ったのは、本気になったということです」
フィーナは静かに砂の上を見た。
「ここからです」
試合が再開した。
アリシアの動きが変わった。
それまでは流すことを主軸にしていた。しかし今は違った。踏み込んでいた。仕掛けていた。
レオンが驚いた顔をした。
七合目。
アリシアが間合いを詰めた。
レオンが応じた。
打ち合いが速くなった。
八合目。アリシアが踏み込みを変えた。深く。これまでとは明確に違う踏み込みだった。
レオンが反応した。速かった。しかし。
朧月が、レオンの胴を打っていた。
一本。
同点。
観覧席がどよめいた。
最後の一本。
二人は向かい合った。
レオンの顔が変わっていた。驚きが消えて、純粋な緊張があった。この令嬢を相手に、本気で集中している顔だった。
アリシアはその顔を見て、また少し笑った。
この顔の相手と戦えるのが、一番楽しい。
試合が再開した。
両者、動かなかった。
間合いを保ったまま、動かなかった。
十秒。
二十秒。
観覧席が静まり返った。
三十秒。
先に動いたのはレオンだった。
踏み込んできた。速かった。これまでで最も速かった。
アリシアは動いた。
前に。
レオンの踏み込みに合わせて、前に踏み込んだ。
互いの間合いが、一瞬で消えた。
懐に入った。
朧月の鍔でレオンの手首を弾いた。
レオンの木刀が浮いた。
朧月が、レオンの喉元に止まった。
静寂。
審判が声を上げた。
二本、アリシア。
勝者、アリシア・フォン・ヴァルトハイム。
観覧席が、一拍置いてから、大きく沸いた。
試合後、レオンはアリシアに言った。
「……参りました」
「良い試合でした」
「一つだけ聞かせてください」
「はい」
「最後の踏み込み、あれは何ですか。私の踏み込みに合わせて前に来るとは思いませんでした」
「間合いを消したかったので」
「なぜ間合いを消そうと」
「殿下の力と速度では、間合いがある限り私は不利です。ならば間合いを消せばいい」
レオンはしばらく考えた。
「……言葉にすれば簡単ですが、実際にやるのは」
「慣れです」
「慣れ、ですか」
「何千回もやれば慣れます」
レオンは目を細めた。
それから、深く礼をした。
「……アリシア様、決勝でお待ちしています」
「え?」
「私も決勝に行きます。向こうのブロックで」
アリシアは少し考えた。
「決勝で当たるかもしれないということですか」
「当たりましょう」
「……楽しみにしています」
レオンは笑った。
さっきまでの緊張が消えた、晴れやかな笑みだった。
「私もです」
予選を終えて観覧席に戻ったアリシアを、エリナが出迎えた。
「アリシア様、すごかったです! 最後の試合、信じられなくて」
「良い相手でした」
「あんなに強い騎士の方に勝って、すごいとかそういう言葉が足りないくらいで」
「レオン殿も強かった。決勝で当たるかもしれない」
「決勝、行けるんですか」
「行くと言いましたから」
エリナは目を輝かせた。
フィーナはアリシアに、布と水を差し出した。
「手を」
「大丈夫よ」
「見せてください」
アリシアは手を差し出した。
朧月を握り続けた手のひらが、少し赤くなっていた。
フィーナは無言で手当てをした。
「……痛みは」
「ない」
「……そうですか」
「フィーナ」
「はい」
「今日の稽古、どうだった」
フィーナは手当てをしながら、少し間を置いた。
「……美しかったです」
「稽古を?」
「アリシア様の剣を」
アリシアは少し目を丸くした。
フィーナがそういうことを言うのは、珍しかった。
「……ありがとう」
「お礼には及びません。事実を言っただけです」
フィーナは手当てを終えた。
視線を前に戻した。
アリシア様が笑われた瞬間のことを、思い出した。
一本取られて、髪が乱れて、それでも笑っていた。
あの笑顔を見た時、フィーナは思った。
この方の隣に、いられて良かったと。
ため息を一つついた。
まったく、この方には、一生かなわない。




