第10話 王宮剣術大会、決勝 縮地、初披露
決勝の朝、アリシアはいつもより遅く起きた。
夜明けではなく、日が昇ってから。
フィーナが部屋に入ってきた時、アリシアはベッドの上に座って目を閉じていた。
「アリシア様」
「おはよう」
「眠れましたか」
「よく眠れた」
「……珍しい」
「緊張していないから」
「昨日の予選後も同じことをおっしゃっていました」
「昨日も緊張していなかった」
フィーナは朝の仕度を整えながら、アリシアを横目で見た。
目を閉じたまま、静かに座っている。表情は穏やかだった。緊張している様子は、確かにない。しかし何かを考えている様子も、ない。
「何を考えているのですか」
「何も」
「何も?」
「無心でいる練習をしていたの。前世で師匠に教わった。試合前は何も考えるな、体に任せろ、と」
フィーナは手を止めた。
「……無心でいる練習」
「難しいのよ、これが。何も考えないでいようと思うと、何も考えないでいようとしている自分が出てきてしまうから」
「……それは確かに難しいですね」
「でも慣れると、静かになる。頭の中が」
アリシアは目を開けた。
「今日は静かになった」
フィーナはアリシアの顔を見た。
薄紫の瞳が、澄んでいた。濁りがない。水の底のように、静かだった。
「……準備ができています」
「ありがとう、フィーナ」
アリシアはベッドから降りた。
決勝の会場は予選と同じ大広間だったが、観覧席の人数が違った。
予選の倍はいた。貴族も、騎士も、官吏も。最前列にはヴィクトール公爵が座っていた。その隣に公爵夫人、そしてクロード王子。
クロードは腕を組み、砂の上を見ていた。
昨日の予選から見ていた。アリシアがレオン・アッシュを下した試合も、全部見ていた。
師範から聞いていたことは知っていた。頭では理解していた。
しかし実際に見ると、違う。
あれが——七歳の、自分の婚約者候補の動きだ。
クロードは静かに息を吐いた。
弱い男とは結婚したくない。
あの言葉の意味が、昨日の試合を見て初めて、本当に分かった気がした。
決勝の対戦相手は、二人いた。
一人はレオン・アッシュ。予選でアリシアが下した近衛騎士だった。予選後に言っていた通り、向こうのブロックを勝ち上がってきた。
もう一人は予想外の人物だった。
カイン・ドレイク。三十代の近衛騎士で、レオンの上役にあたる人物だった。大柄で、剣歴は二十年。王宮でも五本の指に入る実力者といわれ、今年初めて大会に出場した。
決勝は三人による総当たりだった。
アリシア対レオン、レオン対カイン、カイン対アリシアの順番で行われる。
観覧席がざわめいた。
令嬢が大会決勝に上がった。それだけで十分な話題だったが、相手がレオンとカインとなれば話が違う。両者とも王宮を代表する剣士だ。
令嬢に勝ち目はない、という声があった。
予選を見ていた者は黙っていた。
第一試合。アリシア対レオン。
昨日と同じ二人が向かい合った。
昨日との違いは、レオンの目だった。昨日より鋭かった。昨日負けた相手に対する、純粋な闘志があった。
アリシアはその目を見て、少し笑った。
「昨日より良い目をしています」
「昨日は驚きすぎました。今日は驚きません」
「そうですか」
「全力で行きます」
「どうぞ」
試合が始まった。
最初の一合から速かった。昨日より速かった。レオンが本気だということが、一合目から分かった。
アリシアは流した。
二合、三合。レオンが押していた。力が違う。昨日分かっていたことだった。しかし今日のレオンは、昨日より踏み込みが深く、速かった。
四合目、アリシアが弾かれた。
体勢が崩れる前に立て直した。しかし昨日より速く崩しに来た。
良い、とアリシアは思った。
昨日の試合から修正してきた。一日で修正できる量ではないはずだが、それでも修正してきた。
本気の相手は、良い。
五合目、打ち合いが三度続いた。
六合目、レオンが大きく踏み込んだ。
アリシアは前に出た。
昨日と同じ動きだった。懐に入り込んで、手首を弾いて、喉元に朧月を止める。
しかしレオンは対応していた。
昨日と同じ動きに、今日は備えていた。
懐に入られた瞬間、体を捌いた。
朧月が空を切った。
アリシアの体勢が、わずかに崩れた。
レオンの木刀が、アリシアの肩口を打った。
一本、レオン。
観覧席が声を上げた。
昨日負けた相手から、一本取った。
アリシアは体勢を立て直した。
レオンを見た。
レオンは真剣な顔をしていた。嬉しそうでも、驕っていもいない。ただ集中していた。
良い、とアリシアは思った。
それでこそ、本気が出せる。
試合が再開した。
アリシアは変えた。
動きを変えた。間合いの取り方を変えた。踏み込みのタイミングを変えた。
昨日と今日で同じ動きをするつもりはない。相手が対応してくれば、こちらも変える。それが前世から積み上げてきた戦い方だった。
七合目。
アリシアが動いた。
踏み込みが、深かった。昨日の最後の一本に似た踏み込みだったが、角度が違った。
レオンが昨日の対応をしようとした。
間に合わなかった。
朧月が、胴を打った。
一本、アリシア。
同点。
最後の一本。
レオンが構えた。
昨日と同じだった。純粋な緊張があった。集中していた。
アリシアも構えた。
動かなかった。
待った。
レオンが仕掛けてきた。速かった。踏み込みが深く、狙いが正確だった。
アリシアは横に動いた。
レオンが追った。
二人が動き合った。打ち合った。
五合続いた。
六合目に、アリシアが踏み込んだ。
深く。
速く。
前世で何千回とやってきた踏み込みだった。
縮地、ではない。まだ縮地ではない。しかし縮地に近い踏み込みだった。
レオンが反応しきれなかった。
朧月が、喉元で止まった。
二本、アリシア。
勝者、アリシア。
観覧席が沸いた。
第二試合。レオン対カイン。
アリシアは観覧席から見た。
カイン・ドレイクは強かった。レオンより力があり、速さはレオンと同等で、経験がある分だけ読みが深かった。
レオンが二本先取されて、一本返して、最後に取れなかった。
二対一でカインの勝利だった。
アリシアはカインの動きを見ていた。
大きい。力がある。踏み込みが重い。受けに回れば確実に弾かれる。
しかし——隙がある。
小さい隙だった。動きの切り替えの瞬間に、ほんのわずかに、遅れる場所がある。
前世ならば当たり前に見えた隙だった。しかし今世の体と目で見えるかどうかは、やってみなければ分からない。
フィーナが隣に来た。
「カイン殿を見ていますか」
「ええ」
「どう見えますか」
「強い」
「……それだけですか」
「隙がある」
「見えますか」
「たぶん」
フィーナは砂の上を見た。
「……大丈夫ですか」
「やってみなければ分からないことがある。それだけ」
「……らしくない言葉ですね」
「そう?」
「アリシア様はいつも、やれると言い切ります」
アリシアは少し考えた。
「言い切れる時は言い切る。言い切れない時は言い切らない。それだけよ」
「……今日は言い切れない?」
「カインはレオンより手強い。それは分かった。どこまで本気を出すか、決めかねているのよ」
フィーナは目を細めた。
「……どこまで、というのは」
「縮地を使うかどうか」
フィーナは静かに息を吸った。
縮地、という言葉は知っていた。アリシアから聞いたことがある。前世で到達した、神速を超えた神速の足捌きだと。しかし今世でそれを使うところを、フィーナはまだ見たことがなかった。
「今世で使ったことは」
「ない。使う必要がなかったから」
「……カインが相手なら、必要がある?」
「あるかもしれない」
アリシアは朧月の柄を握った。
「使えるかどうかも、やってみなければ分からない。今世の体で使えるかどうかは、試したことがない」
「……怖くないのですか」
「怖い?」
「使えなかったら、という意味で」
アリシアは少し考えた。
「使えなければ、使えない中で勝てばいい」
「……使えなくても勝てますか」
「分からない」
「……それが今日の、言い切れない理由ですか」
「そう」
フィーナはアリシアを見た。
珍しかった。この方が分からない、と言う場面は、滅多にない。
しかしその目は澄んでいた。迷っていない。ただ、正直に言っているだけだった。
「アリシア様」
「なに?」
「使えると思います」
「根拠は」
「根拠はありません」
フィーナはまっすぐにアリシアを見た。
「ただ、アリシア様の体が覚えていることは、今世でも出てきます。今までそうでした」
アリシアはフィーナを見た。
「……そうね」
「はい」
「ありがとう、フィーナ」
「お礼には及びません。事実を言っただけです」
アリシアは少し笑った。
澄んだ、静かな笑みだった。
第三試合。アリシア対カイン。
カイン・ドレイクはアリシアを見た。
令嬢だった。七歳の。しかしレオンを下した動きは見ていた。油断するつもりはなかった。
「アリシア嬢」
「はい」
「怪我をさせてしまっても」
「しません」
「できれば手加減を——」
「カイン殿」
アリシアは静かに言った。
「手加減は不要です。全力で来てください」
「……それは」
「私が全力を出せません」
カインはしばらくアリシアを見た。
やがて、深く息を吸った。
「……分かりました。失礼のないよう、全力で」
「ありがとうございます」
二人が構えた。
観覧席が静まり返った。
試合が始まった。
最初の一合で、観覧席から息を飲む音がした。
速かった。カインが速かった。レオンより重く、レオンより力がある踏み込みが来た。
アリシアは流した。
流せた。しかし弾かれる寸前だった。
二合目、カインが追った。速かった。
アリシアがかわした。
三合、四合、打ち合った。
カインが押していた。力が違いすぎる。体重が三倍近く違う。受けに回れば終わりだった。
五合目、アリシアが大きく弾かれた。
体勢が崩れた。
カインが踏み込んだ。
アリシアは体勢を立て直しながら、後退した。
木刀が肩を掠めた。
一本、カイン。
観覧席が声を上げた。
アリシアは肩を押さえた。
少し、痺れた。本気の一撃だった。
アリシアは構えを取り直した。
カインを見た。
カインは真剣な目をしていた。令嬢相手だからといって手を抜く気がない目だった。
良い。
それでこそ。
アリシアは息を整えた。
隙を探した。動きの切り替えの瞬間に、わずかに遅れる場所があるはずだった。レオン戦で見えた隙だった。
もう一度、見えるかどうか。
試合が再開した。
六合目。カインが踏み込んだ。
アリシアは流した。
切り替えの瞬間。
見えた。
小さかった。本当に小さい隙だった。しかし確かにあった。
間に合わなかった。踏み込みが遅れた。
七合目。
また流した。
また切り替えの瞬間が来た。
今度は間に合った。
アリシアが踏み込んだ。
カインが反応した。速かった。
朧月が届かなかった。
カインの木刀が、アリシアの手首を打った。
朧月が跳んだ。
アリシアは朧月が床に落ちる前に掴んだ。
一瞬の出来事だった。
観覧席が、静かになった。
朧月を持ち直した。
手首が痺れていた。
カインは驚いた顔をしていた。朧月を落とした、と思ったはずだった。しかしアリシアが空中で掴んだ。
「……見事です」
「ありがとうございます」
「しかし」
カインは構えた。
「まだ私が二本先取です」
「そうですね」
アリシアは構えた。
最後の一本を取れなければ負ける。
カインから最後の一本を取るには——隙を使うだけでは間に合わない。
アリシアは静かに思った。
使う。
縮地を使う。
今世の体で使えるかどうか、分からない。しかし前世の体が覚えていることは、今世でも出てくる。フィーナが言った言葉だった。
信じる。
体を信じる。
試合が再開した。
カインが動いた。
速かった。
アリシアは動かなかった。
待った。
カインの踏み込みが来た。
その瞬間。
アリシアは動いた。
観覧席で、エリナが声を上げようとした。
声が、出なかった。
見えなかった。
アリシアが動いた瞬間が、見えなかった。
立っていた。
次の瞬間には、いなかった。
気づいたら、カインの横に立っていた。
朧月が、カインの首筋に当たっていた。
静止。
誰も声を出せなかった。
カインは動かなかった。動けなかった。
何が起きたか、分かっていなかった。
審判が動いた。
長い沈黙の後、声を上げた。
二本、アリシア。
勝者、アリシア・フォン・ヴァルトハイム。
大会優勝、アリシア・フォン・ヴァルトハイム。
沈黙が続いた。
三秒。
五秒。
それから観覧席が、一気に沸いた。
カインはしばらくその場に立っていた。
やがてアリシアを見た。
「……今、何が起きましたか」
「踏み込みました」
「どこから来ましたか」
「そこから」
アリシアは元いた場所を指した。
カインは元の場所とアリシアが今立っている場所を見比べた。
「……その距離を、一瞬で」
「ええ」
「動いた瞬間が——見えませんでした」
「そうですか」
「今まで、そういう動きをする人間を見たことがない」
「前世でも私だけでした」
カインは目を丸くした。
「……前世」
「夢の話です」
アリシアは微笑んだ。
令嬢の、完璧な微笑みで。
カインはしばらく黙った後、深く礼をした。
「……完敗です。ありがとうございました」
「こちらこそ。全力で来てくださって、ありがとうございました」
カインは顔を上げた。
目の前に七歳の令嬢が立っていた。白金の髪が乱れていた。手首に木刀の跡が赤く残っていた。しかし目が笑っていた。
剣士の目で、笑っていた。
「アリシア嬢」
「はい」
「一つだけ、お願いがあります」
「なんですか」
「来年も出てください」
アリシアは少し首を傾げた。
「来年は私が勝てるとは思っていませんが、それでも」
「それでも?」
「あなたと戦った後、もっと強くなりたいと思いました。そう思わせてくれた相手と、また戦いたいのです」
アリシアは少し考えた。
「来年も出ます」
「ありがとうございます」
「ただし」
「はい」
「来年は今年より強くなっていてください。私も強くなりますから」
カインは一秒止まった後、笑った。
「……承知しました」
表彰が終わり、観覧席に戻ったアリシアを、フィーナが待っていた。
隣にエリナがいた。エリナは目が赤かった。
「エリナさん、泣いていたの」
「泣いてないです。目にゴミが」
「そう」
「……すごかったです。最後の動き、何も見えなくて。気づいたらカイン様の横に立っていて、それで」
エリナは言葉を詰まらせた。
「なんで泣くのか、自分でも分からないんですが、なんか、なんか見ていたら」
「分かった」
アリシアはエリナを見た。
「ありがとう、エリナさん」
「私は何もしていません」
「見ていてくれた。それで十分よ」
エリナは俯いた。
フィーナはアリシアに布と水を差し出した。
「手首を」
「ええ」
手首を差し出した。赤くなっていた。
フィーナは無言で手当てをした。
「……使えました」
「ええ」
「縮地」
「ええ」
「どうでしたか」
アリシアはしばらく考えた。
「体が覚えていた」
「……そうですか」
「あなたが言った通り」
フィーナは手当てを続けた。
アリシア様が縮地を使うところを、見た。
見えなかった、と言う方が正確だ。動いた瞬間が、見えなかった。
自分はこの方の稽古相手を何百回とやってきた。踏み込みに慣れてきた、とさえ思っていた。
しかし今日の最後の動きは——次元が違った。
まったく、とフィーナは思った。
この方の底が、まだ見えない。
「フィーナ」
「はい」
「帰ったら稽古をしたい」
「……本日は休んでください」
「手首が痺れているから、体の使い方を変えた稽古を」
「休んでください」
「少しだけ」
「駄目です」
アリシアは少し口を閉じた。
「……珍しく強く言うのね」
「今日は休むべき日です」
「どうして」
「大会で優勝した日に稽古をする令嬢は、おそらくアリシア様だけです」
「それは」
「今日はゆっくり休んでください。明日から稽古を再開すれば十分です」
アリシアはフィーナを見た。
フィーナはまっすぐにアリシアを見返した。
珍しい目だった。譲らない、という目だった。
「……分かった」
「ありがとうございます」
「フィーナが強く言う時は、たいてい正しいから」
「……当然です」
フィーナは手当てを終えた。
視線を前に戻した。
大広間の砂の上を見た。
さっき、アリシアが縮地を使った場所だった。
立っていた。次の瞬間、いなかった。
それだけだった。
それだけの動きが、この大広間の全員を黙らせた。
来年、あの動きはもっと速くなる。
再来年は、さらに。
フィーナは小さく息を吐いた。
この方の隣で、これからどれだけのものを見ることになるのか。
まったく、と思った。
楽しみで、仕方がない。




