第11話 大会後の波紋と、婚約問題
翌朝、アリシアはいつも通り夜明けに起きた。
フィーナが部屋に来た時、アリシアはすでに着替えを終えて朧月を手に持っていた。
「アリシア様」
「おはよう」
「昨日、休むと約束されました」
「休んだ。よく眠れた」
「今朝の稽古を休むという意味です」
「言っていない」
「……言わせていただきます」
「フィーナ」
アリシアはフィーナを見た。
「手首の痺れは引いた。肩も問題ない。昨日より体が軽い」
「それは休んだからです。今日も休めばさらに」
「さらに軽くなった体で明日稽古をするより、今日この体で稽古をした方が良い」
「……なぜですか」
「昨日縮地を使った。体がその感覚を覚えている間に、もう一度やりたい」
フィーナは一秒止まった。
「……縮地を」
「今世で初めて使った。感覚が薄れないうちに確認したい」
フィーナはアリシアを見た。
止められない、と思った。この目の時は止められない。
「……手首に負担をかけない稽古に限ります」
「分かった」
「素振りのみ。打ち合いは明日以降」
「分かった」
「それと」
「まだある?」
「朝食を先に召し上がってください」
アリシアは少し考えた。
「……食べてから行く」
「ありがとうございます」
朝食の後、アリシアは中庭に出た。
朧月を抜いた。
素振りを始めた。
昨日の感覚を探した。縮地の直前の、あの静けさを。全身が一つになる感覚を。
百本振った。
見つからなかった。
二百本振った。
片鱗が、見えた気がした。
三百本振ったところで、フィーナが水を持ってきた。
「一度休んでください」
「もう少し」
「水を飲んでから」
アリシアは朧月を下ろした。水を受け取り、飲んだ。
「どうですか」
「難しい」
「縮地ですか」
「再現しようとすると、できない。昨日は無心でいたから、出たのかもしれない」
「無心で、というのは」
「考えずに動いた。体に任せた。だから出た」
フィーナは中庭を見た。
「……考えると出ない、ということですか」
「そう。考えた瞬間に、頭が体より先に動こうとする。それが邪魔をする」
「……難しいですね」
「師匠は言っていた。縮地は技ではない、状態だと。特定の状態に体がなった時だけ、自然に出る」
「状態、とは」
「無心。完全な無心。何も考えず、体が勝手に動く状態」
フィーナはアリシアを見た。
「……それは稽古で作れるものですか」
「時間をかければ。前世では六十を過ぎてからようやく自在に出せるようになった」
「六十を過ぎて」
「今世ではもっと早くなると思う。前世の記憶があるから。体が今世の方が若いから」
「……何歳くらいで」
「十になる前には、と思っていたけれど」
アリシアは空を見上げた。
「昨日出たなら、もう少し早いかもしれない」
フィーナは空を見た。
雲が流れていた。
「アリシア様」
「なに?」
「昨日の大会を、クロード殿下もご覧になっていました」
「知っている」
「……最後の縮地も」
「見えていなかったと思うけれど、見ていたのは知っている」
「殿下の顔が、ずっと変わっていました」
アリシアは空から視線を戻した。
「どんな顔だった?」
「……言葉にするのが難しいですが」
フィーナは少し考えた。
「何かを決めた顔、だと思いました」
アリシアは少し首を傾げた。
「何を決めたのかしら」
「さあ」
「あなたには分からないの?」
「……分かりますが、言うべきかどうか迷っています」
「言いなさい」
「……追いつく、と決めた顔だと思いました」
アリシアは少し目を丸くした。
それから、静かに考えた。
「そう」
「はい」
「……そうか」
朧月の柄を握った。
「だとすれば、少し見直した」
「昨日も同じことをおっしゃっていました」
「昨日より更に、ということよ」
フィーナは無言だった。
内心では思っていた。
アリシア様が他者を見直した、と二日続けて言った。同じ人物について。
これは、珍しいことだ。
その日の午後、王宮学院にアリシアが登校すると、廊下の様子が違った。
視線が多かった。
いつもと違う種類の視線だった。遠巻きに見る視線ではなく、何か言いたそうで言えないような視線だった。
エリナが駆け寄ってきた。
「アリシア様、大変です」
「何が」
「昨日の大会の話が広まっています。学院中で」
「大会は公開だったから、広まるのは当然では」
「そうなんですが、その、なんというか、広まり方が」
「どんな広まり方」
エリナは少し言いにくそうにした。
「霜斬り姫、という呼び名が出ています」
アリシアは一秒止まった。
「霜斬り姫」
「はい」
「……誰が言い始めたの」
「分かりませんが、昨日の大会を見ていた方々の間で、気づいたら」
アリシアはフィーナを見た。
フィーナは無表情だった。しかし目が、ほんのわずかに動いていた。
「フィーナ、何か知っている?」
「……カイン殿が言い始めたと聞きました」
「カイン殿が」
「昨日の試合後に、周囲の方々にお話しされたそうです。最後の一撃が霜が降りるような静けさで来た、と」
アリシアはしばらく黙った。
「……霜斬りは刀の名前なのだけれど」
「カイン殿はご存知なかったかと」
「まあ、良いけれど」
アリシアは歩き始めた。
「霜斬り姫か」
「嫌ですか」
「別に。ただ刀と間違えられているのが少し可笑しい」
エリナが横に並んだ。
「私はかっこいい呼び名だと思います」
「そう?」
「はい。アリシア様に合っています」
「霜斬りはグンナル翁がつけた名前だから、翁に伝えたら喜ぶかもしれないわね」
「グンナル翁というのは」
「刀を打ってくれた鍛冶師よ。今度一緒に行く?」
「えっ、いいんですか」
「怖い顔をしているけれど、悪い方じゃないから」
エリナは頷いた。
フィーナは後ろを歩きながら、小さく息を吐いた。
霜斬り姫、か。
後世にそう呼ばれることになる方が、今は怖い顔の鍛冶師の話をしながら歩いている。
まったく、この方は、いつでもどこでも自分のままだ。
昼食の時間、アリシアがエリナと席についてしばらくして、人が来た。
クロード王子だった。
珍しかった。クロード王子が食堂に来ること自体は珍しくないが、アリシアの席に来ることは珍しかった。
「アリシア嬢」
「殿下」
「少し、よろしいですか」
「どうぞ」
クロードはアリシアの向かいに座った。エリナが隣にいた。エリナはすっかり固まっていた。
「昨日の大会、見ていました」
「存じております」
「素晴らしかった」
「ありがとうございます」
「最後の動き」
「はい」
「あれは——何ですか」
アリシアは少し考えた。
「縮地、と言います」
「縮地」
「足捌きで間合いを瞬時に詰める技法です」
「あの速さは——普通の縮地ではないでしょう」
「神速を超えた縮地、と師匠は呼んでいました」
「師匠というのは」
「夢の中の話です」
クロードはしばらくアリシアを見た。
「夢の中の、というのを、あなたはよく言いますね」
「よく見る夢なので」
「剣の夢」
「ええ」
「七十年分の」
アリシアは少し目を細めた。
「……誰から聞きましたか」
「師範から少し。あとは自分で考えました」
「何を考えたのですか」
「七歳であの剣を持っているのは、七年間で身につけたものではない。ならば別の何かがある」
アリシアはクロードを見た。
頭が良い、と思った。観察眼がある。前から分かっていたことだったが、改めて思った。
「賢いのですね、殿下は」
「そう見えますか」
「答えを言っていないのに、考えを言い当てた」
「答え合わせをしてもらえますか」
「七十年分の記憶が、あります。前世の」
クロードは静かに聞いていた。
「剣豪として生きた前世の記憶が、今世に持ち込まれています。それだけです」
「……それだけ、と言いますが」
「それだけよ」
「常人ならば、それだけでは今のあなたにはなれません」
「才能があったのかもしれない。前世でも、今世でも」
クロードはしばらく黙った。
それから、まっすぐにアリシアを見た。
「アリシア嬢」
「はい」
「一つ、お願いがあります」
「なんですか」
「稽古を、見させてもらえませんか」
アリシアは少し首を傾げた。
「見るだけですか」
「最初は見るだけで。いずれは——手合わせをお願いしたい」
「殿下が私に手合わせを」
「おかしいですか」
「おかしくはないけれど」
アリシアはクロードを見た。
フィーナが言っていた。何かを決めた顔、と。
今もその顔をしていた。静かな、しかし揺るぎない目だった。
「殿下は今、稽古を毎日されているのでしたね」
「はい」
「いつ始めましたか」
「二ヶ月ほど前です」
「何故」
「……弱い男とは、ということを聞きました」
「直接は言っていませんが」
「意味は分かりました」
アリシアはしばらく黙った。
「見に来ることは構いません」
「ありがとうございます」
「ただし」
「はい」
「手合わせは、まだ先です」
「どのくらい先ですか」
「殿下が、手合わせを申し込む価値があると私が判断した時」
クロードは一秒止まった。
「……それはいつですか」
「分かりません。殿下次第です」
クロードは静かに息を吐いた。
「厳しいですね」
「そうですか」
「普通の婚約者は、そういうことを言いませんよ」
「私は普通の婚約者ではないので」
「……そうですね」
クロードは少し笑った。
苦笑、だったが、嬉しそうでもあった。
「分かりました。精進します」
「どうぞ」
「一つだけ聞かせてください」
「なんですか」
「私が手合わせの価値があると判断された時——婚約については、どうなりますか」
アリシアは少し考えた。
「その時に考えます」
「今は保留、ということですか」
「ええ」
「……ずっと保留ですね」
「殿下が条件を満たしていないから」
「条件は、強くなること」
「簡単に言えばそうです」
クロードはもう一度、静かに息を吐いた。
「……なるほど」
「不満ですか」
「不満ではありません」
「では」
「ただ——」
クロードはアリシアを見た。
「あなたの言う強さとは、剣だけですか」
アリシアは少し目を丸くした。
その問いは、予想していなかった。
「……どういう意味ですか」
「剣が強ければ、それで良いのかと思って」
「剣は一つの基準です」
「他には」
「……考えたことがなかった」
正直に言った。
クロードは少し意外そうな顔をした。
「考えたことがない」
「剣以外の基準を、今世で考える機会がなかった。前世では剣だけが基準だったから」
「では今、考えてみてください」
「今すぐですか」
「今でなくても構いません。いずれ」
アリシアはクロードを見た。
十歳の王子だった。整った顔に、真剣な目をしていた。
この男は、賢い。
強さの定義を広げようとしている。剣だけが条件なら、剣を磨けばいい。しかしそれ以外を問うことで、条件そのものを揺さぶっている。
「……殿下は、頭が良いのですね」
「そう見えますか」
「今の問い、策略ですか」
「策略ではありません」
「本気で聞いている?」
「本気で聞いています」
アリシアはしばらくクロードを見た。
嘘をついている顔ではなかった。
「……考えておきます」
「ありがとうございます」
クロードは立ち上がった。
「稽古、いつ見に行っても構いませんか」
「夜明けから始めています」
「夜明けから」
「毎日」
「……承知しました」
クロードは礼をして、去った。
エリナは固まったまま、クロードの背中を見送った。
やがて、アリシアを見た。
「アリシア様」
「なに?」
「殿下、かっこよかったですね」
「そうかしら」
「そうです。あの問い、すごかったです。剣以外の強さって」
「策略かもしれないけれど」
「策略じゃない顔をしていました」
「エリナさんにも分かった?」
「分かります。ああいう顔の時は本気です」
アリシアは少し考えた。
「……エリナさんは、人を見る目があるのね」
「そんなことは」
「ある。さっきの判断は正しいと思う」
エリナは耳を赤くした。
フィーナは後ろで静かに立っていた。
クロード王子が去った方向を、少しだけ見た。
あの問いは、確かに本気だった。
自分もそう思った。
そして——その問いに、アリシア様が答えを持っていなかった。
この方が答えを持っていないことは、滅多にない。
クロード王子は、この方の知らない場所を、一つ見つけた。
まったく、とフィーナは思った。
第三王子、侮れない。
少しだけ、評価を上げた。
その夜、アリシアは自室で朧月の手入れをしながら、クロードの問いを考えた。
剣以外の強さとは、何か。
前世では考えたことがなかった。剣が全てだった。剣が強ければ、それで良かった。
しかし今世では——公爵令嬢として、様々な場を経験してきた。お茶会、学院、大会。その中で動いてきた。
剣とは別の何かで、場が動くことがあった。
フィーナが言っていた。計算なく人の心を掴む、と。父が言っていた。無自覚に場を動かす、と。
それは強さと言えるのか。
アリシアには分からなかった。
ただ、考える価値はある、とは思った。
「アリシア様」
フィーナが部屋に入ってきた。
「明日の朝の仕度が整っています。そろそろお休みください」
「もう少し」
「朧月の手入れは終わっています。何をしているのですか」
「考え事」
「……何を」
「剣以外の強さとは何か」
フィーナは少し止まった。
「……クロード殿下の問いですか」
「ええ」
「答えは出ましたか」
「出ない」
「……では、眠りながら考えてください」
「眠りながらは考えられない」
「眠っている間に、考えがまとまることがあります」
「本当に?」
「はい。私はよくそうします」
アリシアはフィーナを見た。
「フィーナは、剣以外の強さって何だと思う?」
フィーナは少し考えた。
「……人を動かせること、ではないですか」
「人を動かす」
「力でも、言葉でも、ただそこにいることでも。人が動く。それが強さだと思います」
「……それはフィーナ自身の言葉?」
「はい」
「どこかで学んだわけではなく」
「アリシア様を見ていて、思いました」
アリシアは朧月を鞘に収めた。
静かに、それを見た。
「……面白いことを言うのね」
「おかしかったですか」
「おかしくない。ただ——私が人を動かしているとは、思ったことがなかった」
「動かしています」
「無自覚に?」
「はい」
「それは強さと言えるの?」
「言えると思います」
アリシアはしばらく朧月を見た。
「……考えてみる」
「はい」
「クロード殿下に、次に会った時に答えを言えるかもしれない」
「それは、また殿下と話すということですか」
「問いに答えるのは礼儀でしょう」
フィーナは無言だった。
内心では少し驚いていた。
この方から、また話す、という言葉が出た。
これも珍しかった。
「……おやすみなさいませ、アリシア様」
「おやすみ、フィーナ」
フィーナは部屋を出た。
廊下に出て、扉を閉めた。
静かに、小さく息を吐いた。
クロード王子が、また少し評価を上げた。
この方に、剣以外の問いを投げかけて、この方が考え込んだ。
それだけで——十分すぎるほど、すごいことだと思った。




