第12話 第一部、決着
王宮剣術大会から一週間が経った。
アリシアの日常は変わらなかった。夜明けに起きて、朧月を振り、フィーナと打ち合い、学院に行き、稽古場でガルム師範と十本打ち合い、帰宅して霜斬りの手入れをして眠る。
変わったことが一つだけあった。
夜明けの稽古を、クロードが見に来るようになった。
最初に来た朝、アリシアは気づいていたが何も言わなかった。
素振りを続けた。
三百本終わったところで、フィーナが水を持ってきた。
「殿下がいらしています」
「知っている」
「声をかけますか」
「向こうが声をかけてくれば話す」
水を飲んだ。
しばらくして、石畳を踏む音がした。
「アリシア嬢」
「殿下、おはようございます」
クロードが中庭に入ってきた。動きやすい衣装を着ていた。稽古着に近い格好だった。
「見ていても構いませんか」
「どうぞ」
「邪魔でしたら」
「邪魔ではありません。ただし声はかけないでください。稽古中ですので」
「分かりました」
クロードは中庭の端に立った。
アリシアはフィーナと向かい合った。
「フィーナ、来なさい」
「……殿下が見ておられますが」
「関係ない」
「……はい」
フィーナは木刀を構えた。
打ち合いが始まった。
クロードは黙って見ていた。
二人が動く。止まる。また動く。
フィーナは速かった。近衛騎士と互角と聞いていた。その動きは確かに本物だった。
しかしアリシアの方が、速かった。
打ち合いが十本続いた。
アリシアがフィーナの木刀を弾いた。
フィーナが構えを取り直した。
また打ち合った。
クロードは見ながら、自分の稽古を思い浮かべた。毎日師範と打ち合ってきた。体が変わってきた感覚はある。確かに速くなっている。しかし——。
アリシアの動きを見ると、その速さが遠かった。
遠い、と思った。
しかしゼロではない、とも思った。
遠いだけで、方向は見えている。方向が見えているなら、行ける。
稽古が終わった。
アリシアがクロードの方を向いた。
「どうでしたか」
「……速かった」
「フィーナが、ということですか」
「あなたが、ということです。フィーナさんも速かったですが」
「フィーナは強い。王宮の近衛騎士と互角以上に戦える」
「その方と打ち合って、あなたが上回っている」
「今はそうです」
「今は、ということは」
「フィーナはまだ伸びる。私も伸びる。どちらが早く伸びるかは、分からない」
フィーナが後ろで小さく息を吐いた。
アリシアが自分をまだ伸びると言った。それは、今の差を当然のものとして固定していないということだ。
この方は、そういう見方をする。
「殿下は毎日稽古をされている」
「はい」
「体が変わってきた感覚はありますか」
クロードは少し驚いた顔をした。
「……分かりますか」
「動きを見れば分かります。一週間前より重心が低い」
「一週間で、分かりますか」
「分かります。良い変化です」
クロードは静かに聞いていた。
「続けてください」
「はい」
「毎朝見に来るのは構いません。ただし」
「はい」
「見るだけでなく、自分でも動いてください。見ているだけでは体は変わらない」
「見ながら体を動かす、ということですか」
「そこの端で素振りをしながら見ていなさい。中庭は広いから」
クロードは少し目を丸くした。
「……それは、一緒に稽古をするということでは」
「同じ場所にいるだけです。別々に動く」
「それを一緒に、とは言いませんか」
「言いません」
アリシアは朧月を腰に戻した。
「嫌なら来なくていい」
「嫌ではありません」
「では明日から木刀を持ってきなさい」
「……承知しました」
クロードは少し笑った。
苦笑だったが、今日は昨日より嬉しそうだった。
その日の夕方、アリシアは父の書斎を訪ねた。
ヴィクトール公爵は書類の山に囲まれていたが、娘が入ってきた瞬間に顔を上げた。
「アリシア、どうした」
「少し、話を聞いていただきたくて」
「座りなさい」
アリシアは父の向かいに座った。
少し、考えた。
「父上、一つ聞いてもいいですか」
「なんでも」
「父上は、強さとは何だと思いますか」
公爵は少し目を細めた。
「剣の強さか」
「剣だけではない、広い意味での強さです」
「……急にどうした」
「クロード殿下に問われたことで、考えています」
公爵は書類を置いた。
娘を見た。
「殿下がそのような問いを」
「剣以外の強さとは何か、と聞かれました。答えが出ないので、父上に聞こうと思いました」
公爵はしばらく黙った。
窓の外を見た。日が傾いていた。
「……父上が思う強さは、二つある」
「聞かせてください」
「一つは、折れないこと」
「折れない」
「どれだけ打たれても、どれだけ負けても、また立ち上がれること。それが一つ目の強さだ」
アリシアは聞いていた。
「二つ目は、隣にいる者を守れること」
「守る」
「力で守ることだけではない。その者が前を向ける場所を作れること。その者が弱さを見せられる場所になれること。そういう強さだ」
アリシアは父の言葉を、静かに聞いていた。
「……父上はその強さを、どこで学びましたか」
「お前の母上だ」
アリシアは少し目を丸くした。
「母上が」
「私が折れそうになった時、母上は何も言わなかった。ただ隣にいた。それだけで立ち上がれた。それを見て、隣にいることが最も強い守り方だと知った」
公爵は娘を見た。
「アリシア、お前は剣が強い。それは父上が保証する。しかし剣だけが強さではない。お前はすでに、剣以外の強さも持っている」
「私が?」
「フィーナを見ていれば分かる。エリナという娘が隣にいる。学院の様子も聞いている。お前はただそこにいるだけで、周囲が変わる」
「……それは強さなのですか」
「強さだ。最も静かで、最も大きい強さだ」
アリシアはしばらく黙った。
「……父上は、クロード殿下をどう見ていますか」
「急に話が変わったな」
「関係しているので」
公爵は少し考えた。
「弱い男ではない。まだ未熟だが、本物になる素材だ」
「剣が、ということですか」
「剣だけではない。人を見る目がある。問いを立てる力がある。自分の弱さを直視できる。それは本物の素材だ」
「……父上が認めるのですか」
「認めていないとは言っていない。ただ、まだ早い」
「何が早いのですか」
「お前の隣に並ぶには、まだ早い」
アリシアは父を見た。
「父上は、私の隣に並べる人間を待っているのですか」
「当然だ」
「条件は」
「お前が認めた人間であること。それだけだ」
アリシアはしばらく黙った。
「……シンプルな条件ですね」
「シンプルが一番難しい」
公爵は書類を手に取り直した。
「クロード殿下のことだが」
「はい」
「毎朝稽古を見に来ているそうだな」
「今日から来ました」
「明日も来るか」
「木刀を持ってくるように言いました」
公爵は書類を見ながら、小さく笑った。
「……そうか」
「何がおかしいのですか」
「おかしくない。良かったと思っている」
「何が」
「お前が人に稽古を勧めるのは、初めてだ」
アリシアは少し考えた。
「そうかもしれない」
「それだけお前があの殿下を、認め始めているということだろう」
「……まだ認めていません」
「始めている、と言った」
アリシアは何も言わなかった。
公爵は書類に目を落とした。
「今夜の夕食は何だ」
「フィーナに聞いてください」
「フィーナは父上には愛想がないんだ」
「父上以外にも愛想がないから、同じです」
「お前には愛想が良い」
「フィーナは私が好きなのでしょう」
公爵は書類を見ながら、また小さく笑った。
「……そうだな」
夕食の後、アリシアは中庭に出た。
夜だった。星が出ていた。
朧月を抜いた。
星明かりの中で、一振り素振りをした。
前世の記憶が蘇った。道場で一人、月明かりで素振りをした夜の記憶。師匠の声。仲間の顔。
今世には今世のものがある。
フィーナがいる。父がいる。母がいる。エリナがいる。グンナル翁がいる。ガルム師範がいる。
そして——クロード王子が、いる。
アリシアはもう一振り、素振りをした。
「アリシア様」
フィーナが出てきた。
「こんな時間に」
「少しだけ」
「月明かりでの稽古ですか」
「前世を思い出したから」
フィーナは隣に立った。
二人で、しばらく星を見た。
「フィーナ」
「はい」
「父上に聞いた。強さとは何か」
「なんとおっしゃっていましたか」
「折れないこと。そして隣にいる者を守れること」
「……良い言葉ですね」
「母上から学んだそうよ」
「奥様から」
「意外だった」
「……私はそうでもないです」
「奥様が強いと思っていたの?」
「はい。強い方だと思います。旦那様の隣に、ずっといますから」
アリシアは母のことを思った。
静かな人だった。声を荒げたところを見たことがない。剣を持ったこともない。しかしいつも父の隣にいた。父が疲れた顔をしている時、何も言わずに隣に座っていた。
「……そういう強さは、私には難しいかもしれない」
「なぜですか」
「じっと隣にいるより、剣を振っている方が性に合っているから」
「それはアリシア様の強さです。奥様の強さとは別の形の」
「形が違っても、強さと言えるの?」
「言えます」
フィーナはまっすぐにアリシアを見た。
「剣を振るアリシア様の隣に、人が集まります。それは奥様とは別の形で、しかし同じ意味で、人を守っています」
アリシアはフィーナを見た。
「……フィーナは、たまに、良いことを言うのね」
「たまに、は余計です」
「いつもは余計なことを言わないから、たまに良いことを言う、という意味よ」
「……それは褒めていますか」
「褒めている」
フィーナは視線を前に戻した。
耳が少し赤かった。
「アリシア様」
「なに」
「クロード殿下の問いに、答えは出ましたか」
「出た」
「なんと答えるつもりですか」
「人を動かせること。剣でも、言葉でも、ただそこにいることでも」
「……それはフィーナが言ったことでは」
「あなたが教えてくれた答えよ。人から学んだことを答えの一部にするのは、おかしいことではない」
「……おかしくはないですが」
「殿下に言う時、フィーナから聞いた言葉だと伝える。それで問題ない」
フィーナは一秒止まった。
「……私の名前を出すのですか」
「答えの出どころを隠す理由がない」
「でも」
「フィーナが考えた言葉だから、フィーナの言葉として伝える。それだけ」
フィーナは黙った。
何も言えなかった。
まったく、この方は、と思った。
自分の手柄にしない。他者に渡す。それを当然のようにする。
それが——人を動かす強さ、というものかもしれない。
翌朝、夜明け。
中庭に三人がいた。
アリシアと、フィーナと、クロードだった。
クロードは約束通り木刀を持ってきていた。
アリシアは朧月を構えた。
フィーナは木刀を構えた。
クロードは中庭の端で木刀を構えた。
「殿下」
「はい」
「そこで素振りをしながら、私たちの動きを見ていなさい。見て、自分の体に置き換えながら動く」
「……それは難しいですね」
「難しい。だから稽古になる」
「分かりました」
「それと」
「はい」
「声はかけなくていい。動きで話しなさい」
クロードは少し止まった。
「動きで、とは」
「稽古の質で、今日の状態を話す。言葉は要らない」
「……承知しました」
三人が動き始めた。
夜明けの中庭に、木刀と刀の音が響いた。
アリシアとフィーナが打ち合い、その隣でクロードが素振りをしていた。
クロードは素振りをしながら、二人の動きを見ていた。
アリシアの踏み込みを見た。フィーナの捌きを見た。二人の間合いの取り方を見た。それを自分の素振りに落とし込もうとした。
うまくできなかった。
しかし、何かが変わる感覚はあった。
三十分後、アリシアが動きを止めた。
フィーナが水を持ってきた。
クロードも素振りを止めた。
アリシアはクロードを見た。
「どうでしたか」
「難しかったです。見ながら動くのは、思った以上に」
「でも体が変わりましたか」
「……少し、分かりました。踏み込みの作り方が」
「続けてください」
「はい」
アリシアは水を飲んだ。
クロードは少し迷った後、言った。
「アリシア嬢」
「なんですか」
「先日の問い——剣以外の強さについて、考えてくれましたか」
「考えました」
「答えは出ましたか」
「出ました」
クロードは目を細めた。
「聞かせてもらえますか」
「人を動かせること、です」
「人を動かす」
「力でも、言葉でも、ただそこにいることでも。人が動く。それが剣以外の強さだと思います」
クロードはしばらく黙った。
「……それは、あなた自身のことを言っていますか」
「フィーナに言われた言葉です」
「フィーナさんに」
「私が人を動かしているとは、自分では思っていません。ただフィーナはそう言った」
クロードはフィーナを見た。
フィーナは無表情でクロードを見返した。
「……フィーナさん」
「……なんですか、殿下」
「良い言葉ですね」
「…………」
「アリシア嬢がその言葉を選んで、私に伝えてくれた。それは、あなたの言葉が本物だということです」
フィーナは一秒黙った。
「……ありがとうございます」
「こちらこそ」
フィーナは視線を前に戻した。
耳が赤かった。
アリシアはそれを横目で見て、少し笑った。
クロードはアリシアを見た。
「もう一つ聞いていいですか」
「どうぞ」
「私は今日、手合わせの価値がありましたか」
アリシアは少し考えた。
「まだです」
「そうですか」
「ただ」
「はい」
「近づいています」
クロードは静かに息を吸った。
「どのくらい近づいていますか」
「遠いけれど、方向は見えている」
「方向が見えているなら、行けますか」
アリシアは少し首を傾げた。
「それは私が言うことではなく、殿下が決めることです」
「……そうですね」
クロードは木刀を持ち直した。
「また明日、来てもいいですか」
「どうぞ」
「ありがとうございます」
クロードは礼をして、中庭を出た。
その背中を、アリシアは少しだけ見た。
フィーナが隣に来た。
「アリシア様」
「なに」
「近づいている、とおっしゃっていました」
「ええ」
「手合わせの価値、という意味で」
「ええ」
「それ以外の意味では」
アリシアは少し止まった。
「……何が言いたいの」
「何も」
「フィーナ」
「はい」
「言いたいことがある時は、言いなさい」
フィーナは少し考えた。
「……婚約について、考え始めていますか」
「考えていない」
「本当に?」
「今は稽古のことだけ考えている」
「……そうですか」
「フィーナは私に婚約してほしいの?」
「どちらでも」
「本当に?」
「……アリシア様が幸せなら、どちらでも」
アリシアはフィーナを見た。
フィーナは前を向いていた。
「……フィーナ」
「はい」
「ありがとう」
「何がですか」
「どちらでも、と言ってくれたから」
フィーナは何も言わなかった。
まったく、とだけ思った。
この方には、一生かなわない。
夜明けの中庭に、また朧月の音が響いた。
白金の髪の令嬢が、静かに刀を振る。
傍らに黒髪のメイドが立ち、少し離れた場所に亜麻色の髪の王子がいる。
普通ではない光景だった。
しかし三人にとっては、始まりの光景だった。
これから先に何があるかは、まだ誰も知らない。
ただ一つだけ、確かなことがあった。
アリシア・フォン・ヴァルトハイムは今日も朧月を振る。
明日も、その先も。
剣を愛する令嬢は、剣とともに生きる。
それだけは、前世も今世も、変わらない。
第一部 剣姫、目覚める 完




