第7話 転入生がやってきた
その日、王宮学院に転入生が来た。
名前をエリナ・ソレイユといった。
男爵家の出身だった。貴族の中では低い家格だったが、その見目は貴族令嬢たちの中でも際立っていた。栗色の巻き毛、緑の瞳、屈託のない笑顔。廊下を歩くだけで場が明るくなるような、そういう種類の少女だった。
王宮学院に転入した初日、エリナは教室に入った瞬間、固まった。
視線の先に、アリシアがいた。
窓際の席に座り、教科書を読んでいた。白金の髪が朝の光を受けて輝いていた。薄紫の瞳が静かに文字を追っていた。
エリナは隣の席の令嬢に、小声で聞いた。
「あの方は……どなたですか」
「ヴァルトハイム公爵家のアリシア様よ。この学院で一番の令嬢と言われているわ」
「……天使ですか」
「剣を持っているけれど」
「……え」
「腰に木刀を提げているでしょう。毎日持ち歩いているの」
エリナは改めてアリシアを見た。
確かに、腰に木刀が提げてあった。
天使が木刀を持っていた。
転入初日の昼、エリナは一人で食堂の隅に座っていた。
転入生は最初、どこに座ればいいか分からない。誰かに声をかけるのも気を遣う。エリナは小さくなって、持参した弁当を広げた。
「そちら、よろしいですか」
声がした。
顔を上げると、アリシアが立っていた。隣にフィーナが立っていた。
エリナは固まった。
「……え、あ、は、はい」
「ありがとう」
アリシアは向かいの席に座った。フィーナは少し離れた場所に立ったまま、どこか遠くを見ていた。
「転入してきたエリナさんね。私はアリシア・フォン・ヴァルトハイム」
「し、知っています。アリシア様ですよね。有名で、その、えっと」
「緊張しなくていい」
「緊張しないのが難しくて……」
アリシアは少し首を傾げた。
「何故」
「何故って……アリシア様がここまで綺麗な方だとは思っていなかったので」
アリシアはしばらく考えた。
「そう。ありがとう」
特に動揺しなかった。受け取って、終わった。
エリナはその反応に逆に驚いた。この顔でこの反応なのか、と思った。
「アリシア様は、剣を持ち歩いているのですか」
「稽古道具だから手放したくないの」
「稽古を、されているんですか」
「毎日」
「……どんな稽古を」
「今は朧月で素振りを三百本、その後フィーナと打ち合いを五十本、宮廷稽古場で師範と十本」
エリナは頭の中で計算した。
「……一日でですか」
「最近は物足りなくなってきたから、増やそうかと思っているところ」
「……物足りない」
「エリナさんは、何か稽古事を」
「歌と、刺繍と、少しだけピアノを」
「そう」
アリシアは静かにうなずいた。否定も、肯定も、特にしなかった。
ただ聞いた。それだけだった。
エリナはその態度が、何故か心地よかった。
転入から三日後、エリナは学院の令嬢たちから冷たい視線を受けるようになった。
理由は分かっていた。
初日、エリナに笑顔で話しかけてきた令息が何人かいた。その中にクロード王子の取り巻きも含まれていた。それだけで、一部の令嬢たちの目が変わった。
廊下でひそひそ声が聞こえた。男爵家のくせに、という言葉も聞こえた。
エリナは俯いて歩いた。
「エリナさん」
声がした。
アリシアだった。廊下の角から現れた。その後ろにフィーナがいた。
「顔が暗い」
「……少し、疲れているだけです」
「そう」
アリシアは立ち止まった。
「聞こえていたわ。さっきの」
「……アリシア様」
「不愉快ね」
アリシアは静かに言った。怒っている、という感じではなかった。ただ、事実を述べるように。
「家格で人を測るのは、私の好みではない」
「……でも、ここでは当たり前のことで」
「当たり前だとしても、好みではないの」
アリシアはエリナを見た。
薄紫の瞳が、まっすぐだった。
「気にしなくていい、とは言わない。気になるものは気になるから。ただ——」
「ただ?」
「私は気にしていないから、私の前では普通にしていなさい」
エリナは目を瞬いた。
「……それは、その、仲良くしてくださるということですか」
「そういうつもりで言った」
「私は男爵家で」
「聞いた」
「アリシア様は公爵家で」
「知っている」
「それでも、いいんですか」
アリシアは少し考えた。
「剣の話で盛り上がれるかどうかは分からないけれど」
「剣は全然分からないです」
「それは残念」
「すみません」
「謝らなくていい。別の話をすればいい」
アリシアは歩き始めた。
「昼食、一緒に食べましょう。今日はフィーナが弁当を多めに作ってきたから」
「……作っておりません」
フィーナが後ろから静かに言った。
「いつもより多く作ってきたでしょう」
「……たまたまです」
「そう」
アリシアは振り返らずに歩いた。
エリナはフィーナを見た。
フィーナはエリナを見た。
無表情だった。
「……行くの? 行かないの?」
フィーナが静かに言った。
「行きます!」
エリナは急いでアリシアの後を追った。
その日の午後、令嬢たちの間に話が広まった。
アリシア様がエリナ・ソレイユと昼食をともにした、という話だった。
令嬢たちは顔を見合わせた。
アリシア様が、誰かを昼食に誘うのは珍しい。普段は稽古の話しかしないし、稽古の話が通じない相手とは世間話をして終わる。そのアリシア様が、転入してきたばかりの男爵家の令嬢と昼食を、という話だった。
廊下でひそひそ声をあげていた令嬢たちが、少し顔を青ざめた。
アリシア様はああいうことに無関心なように見えて、実はよく見ている。そしてアリシア様が一度庇った相手に、嫌がらせを続けるのは——得策ではない。
公爵令嬢としての影響力を、アリシアは全く意識していなかった。
しかしその影響力は、確かに働いた。
「フィーナ」
帰り道、馬車の中でアリシアが言った。
「なんですか」
「エリナさん、良い子ね」
「……そうですか」
「あなたはどう思う」
フィーナは少し間を置いた。
「……判断するにはまだ早い、と思います」
「慎重ね」
「アリシア様が庇った相手ですので、慎重に見極めます」
「別に庇ったわけではないのだけれど」
「……傍から見ると、庇っておられます」
「そう」
アリシアは窓の外を見た。
「悪い子ではないと思う。それだけよ」
「……承知しました」
「それと」
「はい」
「弁当、多めに作ってきてくれてありがとう」
フィーナは窓の外を見た。
「……たまたまです」
「そう」
馬車の中に、静かな時間が流れた。
フィーナは窓の外を見たまま、小さく息を吐いた。
たまたま、ではなかった。
三日前から、なんとなく、そういう気がしていた。
この方が誰かを昼食に誘いそうな、そういう気が。
まったく、とフィーナは思った。
この方の考えていることが、少しずつ分かるようになってきた自分が、少し恐ろしかった。




