第6話 第三王子の、奮起
クロード・アルベール・レオニウス第三王子が、アリシアの稽古を初めて目撃したのは、偶然だった。
王宮の回廊を歩いていた時、中庭から音が聞こえた。
木刀の音ではなかった。もっと鋭い、空気を断つような音だった。
足が止まった。
回廊の窓から中庭を見下ろした。
アリシアがいた。
白金の髪を高く結い上げ、動きやすい衣装を纏い、刀を持って立っていた。刃引きの刀だとは、後で知った。その時のクロードには、ただ刀を持った少女が見えるだけだった。
アリシアが動いた。
踏み込み、振り、戻る。その一連が、流れるように繋がっていた。止まる場所がない。始まりと終わりの境目が見えない。
クロードは窓枠を掴んだまま、動けなかった。
あれは、七歳の少女の動きではない。
天才と呼ばれ、剣術も人並み以上にこなしてきた自負があった。しかしあの動きを前にすると、自分が積み上げてきたものの小ささを、静かに、しかし確かに、突きつけられる気がした。
アリシアが素振りを止めた。
傍らにいた黒髪のメイドが、何か言った。アリシアが笑った。
その笑顔が、回廊まで届いた気がした。
クロードは窓から離れた。
執務の合間を縫って、クロードは剣術師範のもとを訪ねた。
ガルム・ホルスト師範は、王子の訪問に目を丸くした。
「殿下、本日は稽古の日では——」
「師範、一つ聞かせてください」
クロードは単刀直入に言った。
「ヴァルトハイム公爵家の令嬢が、この稽古場に通っていると聞きました」
師範の表情が、微妙に動いた。
「……はい。月水金においでになります」
「実力は」
師範はしばらく黙った。
「……正直に申し上げてよろしいですか」
「どうぞ」
「私では、もう教えることがほとんどありません」
クロードは眉を上げた。
「師範が、ですか」
「はい」
「あの方は——七歳では」
「七歳です」
師範は静かに言った。
「しかし剣の中身は、七歳ではありません。どこで何を学んだのか、私には分かりません。ただ分かることは——私が四十年かけて積み上げたものを、あの方はすでに持っているということです」
クロードは沈黙した。
分かっていた。中庭から見た時から、分かっていた。
しかし師範の口から聞くと、改めて重みが違った。
「殿下」
「なんですか」
「……差し出がましいことを申し上げますが」
「構いません」
「アリシア様は先日、殿下から届いた稽古の申し込みを、保留にされておられると聞きました」
クロードは少し目を細めた。
「……聞こえているのですね」
「王宮は狭いですので」
「そうですね」
クロードは窓の外を見た。
今日、回廊から見た光景が、まだ頭に焼きついていた。踏み込み、振り、戻る。止まる場所のない、一連の流れ。
「師範」
「はい」
「私は今、どの程度ですか。正直に」
師範はまた少し黙った。
「……殿下は間違いなく才があります。王族の中では飛び抜けておられる」
「それは聞いていません」
「……では正直に」
「どうぞ」
「アリシア様と立ち合えば、今の殿下では、十本打って一本も取れないかもしれません」
クロードは静かに息を吐いた。
「そうですか」
「申し訳ありません」
「いいえ」
クロードは立ち上がった。
「正直に言ってくれてありがとうございます、師範」
「殿下」
「稽古の日程を、増やしたいのですが」
師範は目を丸くした。
「……今は週三日でございますが」
「毎日にできますか」
「公務や学業が」
「調整します」
師範はクロードを見た。
十歳の王子だった。整った顔に、静かな、しかし揺るぎない光を湛えた目をしていた。
「……理由を、お聞きしてもよろしいですか」
「弱い男とは結婚したくない、と言われました」
師範は一瞬、固まった。
「……アリシア様に、ですか」
「直接ではありません。しかしそういう意味だということは、分かりました」
クロードは小さく笑った。
「悔しい、という気持ちは、もちろんあります。しかしそれよりも——」
言葉を選ぶように、少し間があった。
「あれだけのものを持っている人間が、隣にいる。それに見合う自分でなければ、という気持ちの方が、強いのです」
師範はしばらくクロードを見た。
やがて、深くうなずいた。
「……承知しました。毎日お付き合いいたします」
「ありがとうございます、師範」
「ただし」
師範は少し表情を引き締めた。
「殿下、一つよろしいですか」
「なんですか」
「アリシア様の稽古を、見学されたことはありますか」
「今日、偶然に」
「それは良いものを見られた」
師範は静かに言った。
「あの方の剣を見ると、自分の剣の粗が分かります。悔しいですが、それが事実です。機会があれば、また見られることをお勧めします」
クロードはうなずいた。
「そうします」
その日から、クロードの稽古は毎日になった。
王宮の中で静かな話題になった。第三王子が急に稽古を増やした、と。学業も公務もこなしながら、剣術の稽古を毎日続けている、と。
その理由を知る者は少なかった。
知っていたのは、ガルム師範と、ヴィクトール公爵と——。
「フィーナ」
「はい、アリシア様」
「クロード殿下が稽古を毎日にされたそうね」
「……耳が早いですね」
「王宮は狭いから」
アリシアは朧月の柄を撫でながら、少し考えた。
「少し、見直したわ」
「殿下をですか」
「弱いままでいる気がないということでしょう。それは良いことだと思う」
「……婚約については」
「まだ保留」
「……そうですか」
「強くなってから出直してきなさい、ということよ」
フィーナは無言だった。
しかし内心では、珍しいことを思っていた。
アリシア様が、他者を見直したと言った。
この方が他者を評価する言葉を口にするのは、滅多にない。
つまり第三王子は、この方の中で、少しだけ株を上げたということだ。
「フィーナ」
「はい」
「明日の稽古、付き合ってくれる?」
「もちろんです」
「今日より少し、本気でお願いしたい」
フィーナは朧月を見た。
刃引きの刃が、夕暮れの光を照り返していた。
「……アリシア様より本気を出せる自信は、ありませんが」
「それで十分よ」
アリシアは笑った。
「全力でぶつかってきてくれる人がいるだけで、稽古は変わるから」
フィーナはため息をついた。
本人は全く気づいていないだろうが、今この方は、私を褒めた。
全力でぶつかる価値がある相手だと、言った。
まったく、とフィーナは思った。
この方には、本当に、一生かなわない気がする。




