第5話 朧月はじめの稽古と、フィーナの溜息
朧月を手にした翌朝、アリシアはいつもより一刻早く中庭に出た。
夜はまだ明けていなかった。星が出ていた。風はなく、空気だけが冷たかった。
アリシアは朧月を抜いた。
刃引きの刃が、星明かりを反射した。
一振り。
音が違う。木刀とは全く違う。刀身が空気を断つ感触が、柄を通じて掌に伝わってくる。重心の位置が指定通りで、振り抜いた時の収まりが気持ちいいほど一致した。
もう一振り。
また一振り。
前世の記憶の中で、この感触は何千回も経験している。しかし今世の体で刀を握るのは初めてだった。記憶と体が一致していく感覚が、じわじわと全身に広がった。
これだ、とアリシアは思った。
木刀では出せなかった何かが、今ここにある。
「……アリシア様」
声がした。
フィーナだった。中庭の入り口に立っていた。手に盆を持っている。温かい飲み物が入っているらしく、湯気が夜の空気に白く漂っていた。
「フィーナ、今日は気配を消していなかったわね」
「消しておりました。気づかれるとは思っておりませんでした」
「刀を抜いた後は感覚が研ぎ澄まされるのよ」
フィーナは無言で盆をアリシアに差し出した。
「召し上がってください。体が冷えます」
「稽古の後に」
「今召し上がってください」
アリシアはフィーナの顔を見た。
無表情だった。いつも通り。しかし目が、ほんのわずかに、言っていた。
飲め、と。
「……いただきます」
椀を受け取った。温かかった。蜂蜜を溶かした牛乳だった。前世にはなかったが、今世では好きな飲み物だ。
「フィーナ、覚えていてくれたのね」
「毎朝飲んでおられるので」
「ありがとう」
「……どういたしまして」
フィーナは盆を抱えたまま、アリシアの隣に立った。
二人で、夜明け前の空を見た。
東の端が、ほんのわずかに白みはじめていた。
「フィーナ」
「はい」
「朧月を見てみる?」
「……よろしいのですか」
「あなたにはいつも稽古相手になってもらっているから」
アリシアは朧月を差し出した。
フィーナは盆を地面に置き、両手で朧月を受け取った。
刀を持つ手つきが、慣れていた。騎士家系の末裔だけある。
フィーナはしばらく朧月を見た。刀身を目の高さに持ち上げ、星明かりに透かすように。
「……良い刀です」
「グンナル翁が打った」
「存じております。王都で最後の、東方式の刀を打てる職人」
「知っていたの」
「アリシア様が連れて行かれると聞いた時から、調べました」
アリシアは少し目を丸くした。
「いつの間に」
「それが仕事ですので」
フィーナは朧月をアリシアに返した。
「……良い買い物をされました」
「誂えたのよ。仕様を全部指定して」
「……そうですか」
「重心の位置から、そりの具合まで」
「……七歳が」
「前世の記憶があるので」
「…………」
フィーナは一秒止まった後、小さく息を吐いた。
この方は本当に、と思った。
この方は本当に、時々、何でもないことのように途方もないことを言う。
夜が明けた。
朝の光の中で、アリシアは朧月を構えた。
フィーナが向かいに立った。木刀を持って。
「フィーナ、今日は少し違うことをしたい」
「違うこと、とは」
「動いてくれなくていい。ただ立っていて」
「……立つだけ、ですか」
「間合いの確認をしたいの。朧月は木刀より長いから、感覚を掴むまで時間がかかる」
フィーナは無言で立った。
アリシアは朧月を下段に構え、静止した。
フィーナとの距離を測る。目で測るのではない。体で測る。前世では何十年もかけて染み込ませた感覚を、今世の体に落とし込む作業だ。
一歩、踏み込んだ。
朧月の切っ先が、フィーナの首元で止まった。
フィーナは動かなかった。動じなかった。しかし目が、ほんのわずかに動いた。
「……今、何をされましたか」
「間合いを測った」
「どこから来ましたか」
「そこから」
アリシアは元の位置を指した。
フィーナは元の位置と自分の立っている場所を見比べた。
「……その距離を、一歩で」
「朧月の長さが木刀より長い分、踏み込みを調整しないといけないから」
「…………」
「もう一度やるわね」
「……はい」
フィーナは再び立った。
アリシアは構えを取り、静止し——踏み込んだ。
また朧月が、フィーナの首元で止まった。
今度はフィーナの目が、大きく動いた。
「……今度は、見えませんでした」
「そう。一回目より踏み込みを深くした」
「……踏み込みの深さを変えただけで、速度が変わりましたか」
「体の使い方が変わるから、速度も変わるのよ」
フィーナはしばらく黙った。
この方が目指している場所が、少しだけ見えた気がした。
そして同時に、その場所がどれほど遠いかも。
遠い、とは思わない。
この方ならば、行ける。
「アリシア様」
「なに?」
「……もう一度、お願いできますか」
「見切れるようになりたいの?」
「見切れるとは思っておりません。ただ——」
フィーナは真っすぐにアリシアを見た。
「慣れておきたいのです。アリシア様の剣に」
アリシアは少し考えた後、笑った。
「いいわ。何度でも」
その日の稽古は、日が高くなるまで続いた。
アリシアは朧月で百の素振りをし、間合いの確認をし、フィーナを相手に踏み込みの練習をした。
フィーナは一度も見切れなかった。
しかし百回目には、踏み込みの瞬間に目が動くようになっていた。見切れてはいない。しかし反応はしている。
「フィーナ、少し慣れてきたわね」
「……見切れてはおりません」
「でも目が動いた」
「……動きました」
「それで十分よ。一日で慣れる剣なら、練習する意味がない」
フィーナは朧月を見た。
アリシアの手の中で、刃引きの刃が朝の光を反射していた。
まったく、とフィーナは思った。
この方の隣にいると、自分がまだまだだということを、毎日思い知らされる。
悔しい、とは少し違う。
もっと強くならなければ、という気持ちに、近い。
「フィーナ」
「はい」
「今日の稽古、ありがとう」
「……立っていただけです」
「立っていてくれる人がいるのと、いないのとでは、全然違うのよ」
フィーナは朧月から目を逸らした。
「……承知しました」
まったく、と再び思った。
この方には、本当に、かなわない。
その夜、ヴィクトール公爵はフィーナから今日の稽古の報告を受けた。
聞き終えた後、公爵は少し考えてから言った。
「間合いの確認に、お前を使ったか」
「はい」
「お前を的にしたということだな」
「……的、というより、目安として」
「お前は怖くなかったか」
「何がでしょうか」
「刃引きとはいえ、刀だ。七歳の子供が振る刀が、首元で止まる」
フィーナは一秒考えた。
「……一度も、外れませんでした」
「だからこそ聞いている」
「外れないから、怖くなかったのです」
公爵は目を細めた。
「……それはお前が信頼しているということか」
「信頼、というより」
フィーナはまっすぐに公爵を見た。
「あの方の剣を、信頼しているのです」
公爵はしばらくフィーナを見た後、深くうなずいた。
「そうか」
それだけだった。
しかしその夜、公爵が執務の手を止めて窓の外を眺める時間が、いつもより少し長かったことを、フィーナは知っていた。




