第4話 鍛冶屋の爺と、誂えの刀
父に連れられ馬車に揺られること半刻。
王都の外れ、石畳が途切れて砂利道になる手前に、その工房はあった。
看板は煤けて文字が半分消えている。炉の熱気が通りまで漏れ出し、金属を打つ音が規則正しく響いていた。
良い音だ、とアリシアは思った。
前世の記憶の中に、似た音がある。師匠の紹介で世話になった刀鍛冶の老人。その工房の音と、どこか似ていた。
「アリシア、ここは——」
「分かっております、父上。無礼のないようにします」
公爵は苦笑した。
先日の稽古の後、アリシアは父に言った。
木刀では、感覚が掴めません。刀を誂えたいのです。
父は三秒黙った後、明後日、連れて行こうと言った。それだけだった。聞き返しも、反対もしなかった。
ヴィクトール・フォン・ヴァルトハイム公爵という男は、娘の剣の筋を、あの朝に見た。それで十分だったのだろう。
工房の奥に、老人がいた。
七十を超えているだろうか。背は低く、腰は曲がり、右手は古傷で人差し指が半分ない。しかし炉の前に立った時の眼光だけが、若者のように鋭かった。
王都で最後の、日本刀様式の刀を打てる職人——グンナル翁。
この世界に日本刀はない。しかし数十年前、東方の商人が持ち込んだ一振りの刀に魅せられたこの老人が、独学で似たものを作り続けた。完全な再現ではないが、製法の本質は捉えていると言われる。
「公爵様。また娘御を連れてこられましたか」
「頼みがある、グンナル」
「見れば分かります。——そちらのお嬢さん、前に出てみなされ」
アリシアは前に出た。
老人はしばらく、アリシアを眺めた。顔ではなく、肩を、腕を、腰の据わり方を。
「……ほう」
老人は目を細めた。
「剣をやる目だ。それもただの剣ではない」
「お分かりになりますか」
「七十年も刀を打っておれば、使い手の目を見れば分かる。——で、何が欲しい」
アリシアは一歩前に出た。
「二振り、お願いしたいのです」
「二振り」
「一振りは刃引き。稽古用です。もう一振りは真剣。こちらは有事の備えに」
老人は眉を上げた。
「……令嬢が真剣を持つ理由が、あるのかい」
「あります」
断言した。
老人はしばらくアリシアの顔を見た後、低く笑った。
「よかろう。——して、仕様は。刀の重さ、重心の位置、そりの具合。分かるなら言ってみなされ」
試している。
そう分かった。
七歳の令嬢がどこまで本物かを、職人の目で測ろうとしている。
アリシアは微笑んだ。公爵令嬢の愛らしい笑みではなく——前世で、玄人相手に刀の話をする時の、静かな笑みで。
「全長は私の身長に合わせず、やや長めに。今後伸びますので」
「ほう」
「重心は柄から三寸ほど刀身に寄せてください。先重ねにすると斬り込みの際に押しが利きます」
「……続けなされ」
「そりは浅めで。深いそりは騎馬には向きますが、私は地に足をつけて戦います。刃文はお任せします——そこは職人の領分です」
沈黙。
炉の音だけが響いた。
老人は腕を組み、アリシアをじっと見た。
「——お嬢さん」
「はい」
「あんたは何者だ」
アリシアは少し考えた。
「公爵令嬢です」
「そうじゃない。そういうことじゃない」
老人は静かな声で言った。
「その知識は、どこで学んだ。貴族の剣術で教えることじゃない。東方の刀について、書物すら少ないこの国で、あんたは何故それを知っている」
アリシアは父を見た。
父は小さく頷いた。
「……夢で見たのです」
「夢」
「刀を打つ老人が出てきました。似たような爺様で、怖い顔をしていましたが、良い刀を打っておられた」
老人は数秒沈黙し——。
また低く笑った。今度は、最初よりも柔らかく。
「怖い顔とは、失礼な夢を見るもんだ」
「似ていますよ。目の光が」
「……ふん」
老人は立ち上がり、工房の奥へ歩いた。
「三ヶ月もらう。二振りで三ヶ月だ。——刃引きの方を先に仕上げる。名前は自分でつけるか、わしがつけるか」
「刃引きの方は私が。真剣の方は爺様が」
「ほう、理由は」
「稽古刀は毎日使うもの。自分の名前をつけたい。真剣は——最初に打った朝の空気を、職人だけが知っているものでしょう」
グンナル翁は長い沈黙の後、振り返らずに言った。
「……帰りなされ。三ヶ月後に来い」
それだけだった。
アリシアは礼をして、工房を出た。
馬車に戻る途中、父がぽつりと言った。
「グンナル翁が笑うのを、初めて見た」
「良い方ですね」
「客に向かって怖い顔と言った令嬢は、お前が初めてだろうが」
「前世の師匠に似ていたものですから」
父は立ち止まった。
「……アリシア。前世、というのを、お前はよく言うな」
「庭園で転んだ日から、夢をよく見るのです」
「夢」
「剣の夢です。とても長い夢で、とてもよく覚えているのです」
父はしばらく黙った。
やがて、娘の頭に大きな手を置いた。
「……そうか」
それだけだった。
父もまた、多くを聞かない人だった。
アリシアは父の手の重さを感じながら、三ヶ月後を思った。
自分の刀が来る。
今世で初めて——自分の刀が。
三ヶ月は思ったより早く過ぎた。
毎朝の稽古で木刀を振り、宮廷剣術師との対稽古で場を沸かせ、第三王子から届いた稽古の申し込みという奇妙な手紙を保留にし——気づけば季節が変わっていた。
工房を再び訪れた日、グンナル翁は無言で二振りを差し出した。
一振りは黒鞘。藍の柄巻き。
一振りは白鞘。打ち粉の香りがまだ残っている。
「持ってみなされ」
アリシアは刃引きの刀を手に取った。
重い。
良い意味で。
重心が、指定通りの場所にある。柄の収まりが、掌に吸い付くように合っている。
アリシアはゆっくり抜刀した。
刃引きの刃が、工房の薄明かりを反射した。
一振り、素振りをした。
音が、変わった。
木刀とは違う。空気の断ち方が、別次元だった。
「……名前は決まったか」
「朧月」
「理由は」
「前世では月明かりで稽古しておりましたので」
翁は鼻を鳴らした。
「では真剣の方を見なされ」
アリシアは白鞘の一振りを手に取った。
抜いた。
霜が降りた朝のような、澄んだ刃文が走っていた。
「霜斬りと名付けた。最初に火入れをした朝、霜が降りておった」
「……良い名前です」
「刃文は南蛮渡来の技法と、わしの流儀を混ぜた。この国でこれを打てるのは、もうわしだけだ」
アリシアは真剣を、静かに納刀した。
「一つお聞きしてよいですか」
「なんだ」
「これを打つ間、楽しかったですか」
翁は目を細めた。
長い沈黙の後。
「……久しぶりに、本物のために打った気がした」
「それは」
「楽しかったということだ、このわからず屋め」
アリシアは笑った。
令嬢らしくも、剣士らしくもなく——ただ純粋に、子供のように。
「また来てもよいですか。刀のことを教えてください」
「三ヶ月おきに来い。茶くらいは出してやる」
「では次回は私がお茶菓子を持参します」
「いらん」
「参ります」
「……勝手にしろ」
馬車に揺られながら、アリシアは膝の上の二振りを見た。
朧月と、霜斬り。
今世で初めて手にした、自分だけの刀だ。
さて、とアリシアは思った。
これで、本格的に始められる。
縮地の練度を上げる。間合いの感覚を朧月で研ぎ澄ます。体が今世の子供の器である間に、可能な限り前世の感覚に近づける。
朧月の柄を、そっと握った。
吸い付くように、手に馴染んだ。
後世に霜斬り姫と呼ばれる令嬢の最初の一振りは、こうして鍛冶師の老人の工房で生まれた。
その時のアリシアはまだ、自分がそう呼ばれることなど、知る由もなかった。




