第3話 宮廷剣士に、一本お願いする
王宮の剣術稽古場は、男の場所だった。
石造りの広間に、木刀の音と気合が満ちる。汗の匂い。革と油の匂い。女が踏み込む場所ではない——少なくとも、昨日までは。
扉が開いた。
稽古場の男たちが、一斉に振り返った。
そして、固まった。
白金の髪。
薄紫の瞳。
動きやすく仕立て直させた簡素な衣装を纏い、七歳の少女が立っていた。腰には木刀を提げている。人形のように整った顔が、稽古場をゆっくりと見渡した。
「失礼いたします」
鈴を転がすような声だった。
場の空気が、完全に止まった。
稽古場で最も古参の宮廷剣術師——ガルム・ホルスト師範が、木刀を持ったまま近づいた。四十年の剣歴を持つ大男が、七歳の少女の前で微妙な顔をした。
「……どちら様でしょうか」
「ヴァルトハイム公爵家、アリシアと申します」
令嬢の礼。完璧な角度。頭を上げた時の微笑みが、師範の思考を一瞬飛ばした。
「ここは男子の稽古場で——」
「存じております」
アリシアは腰の木刀に手を添えた。
「ゆえに、申し込みに参りました。一本お願いできますか」
「……は」
「抜かなくて結構ですよ」
師範は眉を寄せた。
抜かなくて結構、の意味を、一瞬後に理解した。
お前ごときに本気を出す必要はない、という意味ではない。
私が抜かなくても、同じ結果だ、という意味だ。
「……令嬢」
「はい」
「本気で言っておられますか」
「いつも本気です」
薄紫の瞳が、師範を見た。
笑顔だった。愛らしい、七歳の少女の笑顔だった。
しかし目が——笑っていなかった。
ガルム師範は四十年のキャリアで初めて、七歳の少女の目に格付けされた気がした。
この子は今、私の実力を測っている。
「……いいでしょう」
師範は木刀を構えた。
本気ではない。相手は七歳だ。転ばせないように。傷をつけないように。しかし手を抜きすぎると失礼になる、その匙加減で——。
アリシアが動いた。
速かった。
七歳の体格からは考えられない踏み込みで、師範の間合いに入った。
木刀が、師範の胴を打った。
強くはない。当然だ、体重も腕力も足りない。
しかし入り方が、おかしかった。
今、どこから来た。
「……もう一本、よろしいですか」
アリシアは既に間合いの外に戻っていた。
白金の髪が、動きの余韻でわずかに揺れている。
師範は木刀を持ち直した。
「……どうぞ」
今度は本気で構えた。
稽古場の男たちは、誰も声を出せなかった。
七歳の令嬢が——あの絵のような顔をした、人形みたいな少女が——ガルム師範と十本を打ち合い、最後の一本で師範の木刀を弾いた。
弾いた、のだ。
力ではない。角度と、タイミングと、何か別のもので。
師範は木刀を拾い、長い沈黙の後に口を開いた。
「……どこで学ばれた」
「夢で」
「夢」
「父と少し。あとは夢で」
師範はアリシアを見た。
朝の光の中で、白金の髪が光っていた。薄紫の瞳が、静かに師範を見返していた。笑顔だった。ずっと笑顔だった。
この子は、今も私の実力を測り続けている。
「……週に何日、来られますか」
「毎日でも」
「ならば月水金を私が、火木は副師範が。——ただし」
師範は咳払いをした。
「令嬢、一つ確認しますが」
「はい」
「今日の最後の一本で、手を抜きましたね」
アリシアは首を傾げた。
「師範が木刀を落とすと、後が面倒だと思いまして」
「……なるほど」
師範の面子を守った、ということか。七歳が。
ガルム師範はもう一度、咳払いをした。
「よろしい。では月曜日から」
「ありがとうございます」
アリシアは完璧な礼をして、稽古場を出た。
扉が閉まった後、稽古場は五秒ほど沈黙した。
最初に口を開いたのは、一番若い見習い剣士だった。
「……師範、今のは、なんですか」
「分からん」
「でも、あの、とても、その、顔が」
「分かっている」
「綺麗で、なんか、木刀持っているのに、なんか」
「分かっていると言っている」
「でも師範も最後、ちょっと」
「訓練を続けろ」
師範は背を向けた。
その耳が、ほんの少し赤かったことに、気づいた者はいなかった。
稽古場を出たアリシアを、廊下でフィーナが待っていた。
無表情だった。いつも通り。しかしアリシアには分かる。フィーナの眉が、ごくわずかに上がっている。それはフィーナにとっての、驚いている顔だった。
「お待たせ、フィーナ」
「……お時間がかかりましたね」
「十本打ち合ったので」
「……師範と」
「ええ」
「ガルム・ホルスト師範と」
「ええ」
「あの、四十年の剣歴を持つ」
「そう」
フィーナは一秒沈黙した。
「……ご様子は」
「最後の一本で木刀を弾いた。師範の面子があるので加減したが」
「…………」
「月水金から通うことになった」
「…………」
「フィーナ?」
「……承知いたしました」
フィーナは踵を返し、廊下を歩き始めた。アリシアはその隣に並んだ。
「何か言いたそうね」
「何も」
「本当に?」
「……一つだけ」
「どうぞ」
「加減、という言葉をアリシア様が使うのは、珍しいと思いまして」
アリシアは少し考えた。
「師範は悪い人ではなさそうだったから」
「それだけですか」
「稽古をつけてもらうのだから、相手が萎縮しても困るし」
「……なるほど」
「それだけよ」
フィーナは前を向いたまま、小さく息を吐いた。
それだけ、か。
この方は本当に、無自覚なのだ。
師範の面子を守ることで、師範を味方につけた。稽古場の全員に、この令嬢は筋が通っていると印象付けた。そして月水金の通い稽古という場所を、難なく手に入れた。
おそらくアリシアは、そういう計算を一切していない。
ただ思ったことをしただけだ。
それが恐ろしい、とフィーナは思った。
計算なく人の心を掴む人間は、計算する人間より、ずっと遠くまで行く。
その日の夜、ヴィクトール公爵のもとに報告が入った。
娘が宮廷剣術師ガルム師範と十本打ち合い、最後の一本で師範の木刀を弾いた。そして月水金の稽古通いを許可させた、という内容だった。
公爵は報告を聞き終えた後、書類を置いた。
しばらく天井を見た。
やがて、執務室の隅に立つフィーナに向かって言った。
「……フィーナ」
「はい、旦那様」
「お前は今日、あの子の稽古を見ていたか」
「はい」
「どう思った」
フィーナは一秒考えた。
「……末恐ろしい、と思いました」
公爵は小さく笑った。
「そうだな」
静かに、しかし確かに、笑った。
「全く同じことを思っていた」
公爵は再び書類を手に取り、ペンを走らせながら言った。
「フィーナ、あの子を頼む」
「旦那様がそうおっしゃらなくても」
「うん?」
「——すでに、そのつもりです」
公爵は顔を上げなかった。
しかしペンを走らせる速度が、少しだけ緩んだ。
「そうか」
それだけだった。
翌朝、夜明け前。
アリシアはいつものように中庭に出た。
フィーナがいた。既に。木刀を手に持って、中庭の端に立っていた。
「フィーナ、早いのね」
「……アリシア様の方が早いかと思っておりましたので」
「今日は少し遅く来たのよ。昨日十本も打ち合ったから、体が重くて」
「……それは、休むべきでは」
「体が重い時に動くのが稽古よ。万全の時だけ動ける身体では実戦で使えない」
フィーナは何も言わなかった。
ただ木刀を構えた。
「……参ります」
「どうぞ」
夜明け前の中庭に、木刀の音が響いた。
白金の髪の令嬢と、黒髪のメイドが向かい合い、薄暗い中で打ち合う。
どこから見ても、普通ではない光景だった。
しかし二人にとっては、すでにこれが日常だった。




