第2話 夜明けの木刀と、父の背中
夜明け前、アリシアの私室に気配があった。
フィーナ・クロスフェルトは音を立てずに扉を開け、音を立てずにカーテンを開け、音を立てずに朝の仕度を整えた。
ベッドを見た。
空だった。
……また。
フィーナは小さく息を吐き、窓の外を確認した。中庭に、白金の髪が見えた。木刀を持って素振りをしている七歳の令嬢が。夜明けの薄暗い中、一人で。
フィーナはメイド服の裾を整え、中庭に向かった。
「アリシア様」
「フィーナ、おはよう」
振り向いた顔が、晴れやかだった。額にうっすら汗をかいている。木刀を持つ手に、まだ血色がある。つまり随分前から振っていた。
「何時からおいでですか」
「夜明け前から」
「……夜明け前から」
「暗い方が集中できるのよ。気配を感じる練習になるし」
フィーナは一秒考えた。
「旦那様には」
「父上は知っている。許可済み」
「……そうですか」
フィーナは中庭の端に移動し、アリシアの素振りを見た。
七歳の体だった。当然だ。腕力も体重も足りない。木刀の重さに振られている場面もある。
しかし——型が、おかしい。
フィーナは騎士家系の末裔として幼い頃から剣を学んでいる。素人ではない。だからこそ分かる。この振り方は付け焼き刃ではない。基礎の基礎が、骨の髄まで入っている。
「フィーナ」
「はい」
「見ていないで、一本お願いできる?」
フィーナは目を細めた。
「稽古の相手、ということですか」
「あなたが持っているナイフ、今日は使わなくていいわ。素手で」
フィーナは固まった。
「……アリシア様、私がナイフを」
「両腕と両脚に四本。昨日数えた」
見抜かれていた。
フィーナがヴァルトハイム公爵家に着任して三日目のことを思い出す。庭で転んで泥だらけになったアリシアを無言で拾い、無言で着替えさせた時、六歳の令嬢は泥のついた膝を見て少し考えて言ったのだ。
フィーナ、ありがとう。あなた、強そうね。その立ち方、普通のメイドと違うもの。父上みたいな、戦う人の立ち方をしている。
あの時と同じだった。この令嬢には、見抜かれる。
「……手加減を」
「しなくていい」
「七歳のお嬢様に本気を出せというのは」
「フィーナ」
アリシアは木刀を下ろし、まっすぐにフィーナを見た。
薄紫の瞳だった。夜明けの光の中で、静かに光っていた。
「あなたが手を抜いたら、私には分かるわ。分かった時、私は怒る」
「……はい」
「公爵令嬢が怒るのは、周囲が困る。だから、来なさい」
フィーナは三秒、主の顔を見た。
やがて、メイド服の上着を脱いだ。
動きやすい姿になり、構えを取った。
「……参ります、アリシア様」
「どうぞ」
五分後。
フィーナは中庭の石畳に手をついていた。
背後から、木刀が首筋に添えられていた。
…………。
「一本、いただきました」
アリシアの声は、静かだった。勝ち誇る色がない。ただ、確認するように。
フィーナは顔を上げた。
主が立っていた。乱れた白金の髪を片手でかき上げながら、木刀を腰に戻しながら、こちらを見ていた。
「フィーナ、あなた速い」
「……負けました」
「速かったのに、私が勝った。つまり」
「……私より、速かった」
「そう」
アリシアは微笑んだ。
「だからお願いしたの。あなたが相手なら、本気が出せると思ったから」
フィーナは立ち上がった。
膝についた土を払いながら、主の顔を見た。
七歳の令嬢だった。絶世の美貌で、木刀を持って、満足そうに笑っている。
この方は、おかしい。色々と、根本的に、おかしい。
しかし——。
「アリシア様」
「なに?」
「明日からも、お相手いたします」
アリシアは少し目を丸くした後、笑った。
「ありがとう、フィーナ」
「……お礼には及びません」
フィーナは上着を着直しながら、主から目を逸らした。
この方が六歳の時、転んで泥だらけになった時、泣かなかった。怒らなかった。ただ私を見て強そうと言った。
今日は私を打ち負かして本気が出せたと笑った。
まったく。
「朝食のご用意ができております。稽古の後はきちんと召し上がってください」
「分かった。フィーナも一緒に食べましょう」
「私はメイドですので」
「私が食べろと言っている」
フィーナは一秒止まった。
「……はい、アリシア様」
その日の朝食の席で、フィーナは主の隣に座った。
生まれて初めて、主と同じ食卓についた。
アリシアは何事もないようにトーストを食べながら、昨日読んだ剣術書の話をした。フィーナは相槌を打ちながら、この状況の異常さに内心でため息をついた。
他のメイドが廊下から覗いていた。
フィーナは扉に向かって視線を飛ばした。
覗いていたメイドたちが、蜘蛛の子を散らすように消えた。
「フィーナ」
「はい」
「さっき何をしたの」
「何もしておりません」
「そう」
アリシアはトーストを一口食べた。
「あなたがいると、安心する」
フィーナは手の中のカップを、静かに置いた。
「……光栄です」
まったく。
この方には、かなわない。
朝食の後、アリシアは再び中庭に出た。
今度は父が待っていた。
ヴィクトール公爵は中庭の中央に立ち、木刀を手に持ち、娘を見た。昨日と同じ場所に、昨日と同じ構えで。しかし昨日と少し違うのは、その目だった。
昨日はどこかに戸惑いがあった。七歳の娘が剣を求める理由を測るような、確かめるような目だった。
今日は違う。
純粋に、相手を見る目だった。
「昨日より早いな」
「素振りを百本しましたので」
「今朝だけで?」
「夜明け前から来ておりましたので」
公爵は一瞬目を閉じ、それから小さく笑った。
「……フィーナが血相を変えて報告に来るはずだ」
「フィーナは血相を変えません。常に同じ顔をしています」
「……それはそうだが」
父は木刀を構えた。
「昨日の続きをしよう。——来い」
アリシアは構えを取った。
腰を落とす。重心を定める。息を整える。
前世の記憶の中で、この構えは何千回、何万回と繰り返した。体が覚えている。今世の七歳の肉体がどれだけ追いつかなくても、記憶だけは完璧だった。
問題は——記憶と体の間にある、埋めるべき距離だ。
踏み込んだ。
父の木刀が動いた。重い。公爵の膂力は本物だった。昨日一日でよく分かった。力で受ければ吹き飛ぶ。だから受けない。
流す。
力を殺して、横に逃がして、崩れた隙に——。
父の木刀が、アリシアの肩口を打った。
「……惜しい」
「もう一本」
「来い」
また踏み込んだ。
また打たれた。
三本目も、四本目も。
アリシアは打たれるたびに立ち上がり、構えを取り直した。痛い、とは思う。しかし前世でも稽古中に痛くなかった日などない。痛みは慣れるものだ。慣れなければ慣れるまでやればいい。
「アリシア、少し休め」
「もう一本」
「肩が赤くなっている」
「打たれた場所が赤くなるのは当然です」
「七歳の娘に言う言葉ではないが——お前が言うと、反論できないな」
公爵は苦笑しながら、木刀を下ろした。
「水を飲め。フィーナが持ってきている」
振り返ると、中庭の端にフィーナが立っていた。いつからいたのか。盆の上に水差しと椀を載せ、無表情でこちらを見ていた。
アリシアは歩み寄り、椀を受け取った。
「ありがとう、フィーナ」
「……どういたしまして」
フィーナはアリシアの肩を一瞥した。赤くなっている箇所に視線が止まり、それから公爵に向けられた。
「旦那様」
「なんだ、フィーナ」
「……加減を、お願いできますか」
「お前は昨日、本気で相手をしろと言ったアリシアの意見を支持したではないか」
「……それはそうですが」
「矛盾しているぞ」
「……矛盾しておりません。アリシア様が望まれたことと、私が心配することは、別の話です」
アリシアは水を飲みながら、二人のやり取りを眺めた。
フィーナが他者に向けて二文以上話すのは、珍しい。
しかも公爵相手に、言い返している。
「フィーナ」
「はい、アリシア様」
「ありがとう」
フィーナは一瞬、止まった。
「……お礼には及びません」
そっぽを向いた。しかし耳が、わずかに赤くなっていた。
その日の稽古は、日が高くなるまで続いた。
アリシアは十七本打たれ、二本だけ父の隙を突くことができた。
二本。
前世の感覚では到底満足できる数ではない。しかし今世の七歳の体でヴィクトール公爵から二本取れたという事実を、アリシアは素直に受け取った。
前世でも、最初から強かったわけではない。
積み上げてきたものがある。だから今がある。
今世でも、同じだ。
積み上げればいい。前世の記憶という地図を持ちながら、今世の体で、もう一度。
「父上」
「なんだ」
「明日も、お付き合いいただけますか」
ヴィクトール公爵は娘を見下ろした。白金の髪が乱れ、肩は赤く、額に汗をかいている。それでも目だけが、燃えるように輝いていた。
公爵は目を細めた。
「毎朝付き合う。それでいいか」
「ありがとうございます」
「ただし」
父は少し考えてから、言った。
「一つ、聞いていいか」
「はい」
「お前は——楽しいか」
アリシアは少し驚いた。
楽しいか、と聞かれた。強くなりたいか、でも、なぜ剣を振るのか、でもなく。
父は娘の顔を見ていた。答えを急かさず、ただ待っていた。
「楽しいです」
アリシアは答えた。
「剣を振っている時が、一番、自分らしい気がします」
公爵はしばらく娘の顔を見た後、うなずいた。
「そうか」
それだけだった。
しかしその言葉の中に、許可も、心配も、覚悟も、全部入っているような気がした。
アリシアは父の背中を見た。
大きな背中だった。
前世の師匠の背中とは違う。あの人は細く、枯れ木のように見えて、しかし刀を持った瞬間に山のようになった。
父の背中は最初から山だった。
この背中を、いつか越える。
アリシアは静かに思った。
越えて、それから——本当の稽古が始まる。
その夜、フィーナはアリシアの部屋の灯りが消えるまで廊下で待った。
主が眠ったことを確認して、自室に戻りながら、フィーナは今日一日を思い返した。
夜明け前から素振りをする主。
打たれても立ち上がる主。
ありがとうと言う主。
まったく、とフィーナは思った。
この方は、おかしい。
七歳の公爵令嬢が夜明け前から木刀を振り、メイドを打ち負かし、公爵から二本取り、それでも足りないと思っている。どう考えても普通ではない。
しかし——。
フィーナは自分の右手を見た。
今朝、打ち負かされた手だ。
あの速さは、本物だった。七歳の体から出ていい速さではなかった。技の筋が、まるで何十年も剣を振ってきた人間のものだった。
この方は、何者なのか。
フィーナには分からない。
分からないが——。
ひとつだけ、分かることがある。
この方の隣にいると、何か大きなものを見ている気がする。
それで十分だ、とフィーナは思った。
自室の扉を開け、静かに閉めた。
明日も夜明け前には中庭に行こう。
アリシア様が一人で素振りをしているのを、黙って見ているわけにはいかない。




