表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
転生令嬢は剣を取る ~前世の記憶と婚約者と、私の剣が最強です~  作者: 翡翠


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

1/12

第1話 庭園の転倒と、記憶の奔流

 王宮の庭園は、いつ来ても美しかった。


 薔薇の生け垣が幾重にも連なり、石畳の小径に白い花びらが舞い落ちる。噴水の水音が耳に心地よく、春の陽光は令嬢の白金の髪を柔らかく照らしていた。


 アリシア・フォン・ヴァルトハイム公爵令嬢、七歳。


 今この瞬間、彼女は世界で最も幸福な少女であった。


「アリシア嬢、足元に気をつけてください。先日の雨で石畳が」


「大丈夫ですわ、クロード殿下。わたくしはそれほど」


 ぱしゃ、と水溜まりを踏んだ。


 次の瞬間には空が見えていた。


 石畳の冷たさが後頭部を打つ。衝撃よりも先に、何か巨大なものが頭の中で弾けた。


 水が器に溢れるように。

 堰が崩れるように。

 七年分の記憶の隙間に、別の七十年分が流れ込んでくる。


 刀の、重さ。

 血の、匂い。

 師の、声。腰が高い。死にたいか。

 満天の星の下、道場で一人素振りをする夜の、充足感。


「アリシア嬢!」


 声が遠い。


「人を呼びます、今すぐ」


 遠くなる。


 アリシア——否、かつて別の名前で呼ばれた女は、冷たい石畳の上で静かに目を閉じた。


 七十年分の記憶が、一つに、なった。



 目を開けた時、そこには十歳の少年が顔を真っ青にして覗き込んでいた。


 亜麻色の髪。灰色の瞳。均整の取れた顔立ち。この国の第三王子、クロード・アルベール・レオニウス。天才と名高く、弓術も剣術も飛びぬけた才を持ち、学業においては既に一流の学者と互角の議論ができると聞く。


 アリシアはゆっくりと上体を起こし、彼を観察した。


 ……弱い。


 その一言が、頭に浮かんだ。


 否、正確に言えば——まだ強くなれる素材ではあるが、今は弱い。


 腰が据わっていない。重心が高い。焦りで呼吸が乱れている。あの体格で刀を持てば、力任せの大振りになる。


「アリシア嬢、聞こえますか。頭を打ちましたよね、すぐに医師を」


「問題ありません、殿下」


 アリシアは立ち上がった。ドレスについた泥を手で払い、乱れた髪を整え、完璧な笑顔を作る。七年間公爵令嬢として叩き込まれた所作が、今この瞬間に役立った。


「本当に? 転んで随分長く」


「少々、夢を見ておりましたわ」


 夢。そう、夢のようなものだ。


 七十年かけて積み上げた、剣の夢。


「……顔色が変わりましたね」


 クロード王子は首を傾げた。観察眼は確かにある、とアリシアは思った。


「そうかもしれません」


 アリシアは静かに、前世の記憶を整理した。


 自分は武士の家に生まれた女だった。女であることを理由に道場に入れてもらえず、父の寝室から木刀を盗み、十年かけて独学で剣の基礎を固めた。師に出会い、本物の剣を学び、真剣を握り、そして——人を斬った。


 幕末の動乱の中で、幾度も。


 七十二歳で大往生するその日まで、剣を手放さなかった。


 なのに今世では、お茶会でスコーンを食べて、殿下の婚約者として微笑んで……。


 アリシアは空を見上げた。


 青い空だった。


 前世の記憶が戻る前、自分はこの少年と結婚したかったのだ。それはよく分かる。容姿は端麗、頭脳は明晰、王族の中でも破格の才能を持つと評判の殿下。七歳の令嬢が憧れるには十分すぎる存在だ。


 しかし今は——。


「殿下」


「はい」


「殿下は剣術の稽古を、週に何度なさいますか」


 唐突な問いに、クロード王子は瞬きをした。


「……週三日ほどです。王族としては多い方かと」


「左様でしたか」


 週三日。


 前世の自分は、風雨の日も、熱が出た日も、一日として刀を握らなかった日はなかった。


 弱い、とは思わない。この年齢で週三日ならば十分に努力家だ。


 ただ——今の自分と、釣り合わない。


「殿下は今後も、週三日のご予定で?」


「何故そのような……まあ、おそらくは。公務もありますし、学業もありますので」


「そうですか」


 アリシアは微笑んだ。公爵令嬢として完璧な、愛らしい微笑みで。


 婚約は、考え直す必要がありますわね。



 その夜、アリシア・フォン・ヴァルトハイムは父の書斎を訪ねた。


 ヴィクトール・フォン・ヴァルトハイム公爵。この国で最も武に近い貴族と呼ばれる男で、その体躯は熊を想起させた。娘には甘く、執務机の向こうで書類を捌きながら、アリシアが入ってきた瞬間に顔を綻ばせる。


「アリシア。どうした、こんな夜に」


「父上、一つお願いがございます」


「なんでも言いなさい」


 アリシアはスカートの裾を持ち、優雅に礼をした。完璧な令嬢として。


「剣術の稽古をつけていただきたいのです」


 沈黙。


 公爵は書類から顔を上げた。


「……もう一度言いなさい」


「剣術の稽古を。できればすぐに。明日からでも」


「アリシア、お前は公爵令嬢で」


「存じております」


「七歳で」


「存じております」


「先週まで馬上の礼の練習をしていた」


「存じております」


 アリシアは父の目をまっすぐに見た。今世の記憶にある父は、優しく、厳しく、娘を心から愛している。しかし前世の記憶の中にいる師は、もっと怖かった。こんな目線では動じない。


「……何故急に」


「本日庭園で転びまして」


「それは聞いた。頭を打ったと」


「夢を見たのです。刀を振る夢を」


 公爵は長い沈黙の後、大きく息を吐いた。


「……分かった」


「本当に?」


「ただし、最初は木刀だ。それで基礎を見てから判断する。それと」


 父は眉を寄せた。


「クロード殿下との婚約は、お前が望んだことだ。それは——」


「それはまた別の話です」


 アリシアは微笑んだ。


「殿下が強くなれば、考えます」


「……何を言っているんだ、お前は」


「父上も、本当は分かっておいでなのでは? 弱い男に、娘は渡せないと」


 公爵は何とも言えない表情をした。


 やがて、ゆっくりと笑った。


「明日の夜明けに中庭に来なさい。付き合おう」



 翌朝、夜明けの光の中。


 アリシアは初めて木刀を握った——今世では、初めて。


 前世の七十年分の記憶が、指先に宿っている。


 構えを取る。腰を落とし、重心を定め、息を整える。


 父が目を見開いた。


「アリシア……その構えは」


「おかしいですか」


「いや……いや、そんなことは」


 公爵は口の中で何かを呟いた。その目に、見たことのない光が宿る。


 アリシアは木刀を振った。


 一振り。


 ただそれだけで、朝の冷気が切れた。


 風を切る音が、庭に響いた。


 公爵は長い沈黙の後、静かに言った。


「……もう一度、振りなさい」


 アリシアは振った。


 また振った。


 何度でも振った。


 前世の記憶の中の師が言っていた言葉が、耳の奥で蘇る。


 剣とは、生き様だ。強く生きたければ、強く振れ。


「父上」


「なんだ」


「楽しいですわ」


 アリシアは笑った。


 令嬢の微笑みではなく、何か別のもの——剣士が勝負の前に浮かべるような、晴れ渡った笑みで。


 ヴィクトール公爵は娘の顔を見て、ひと呼吸置いた後、笑った。


「そうか」


 彼は書斎から持ってきたもう一本の木刀を手に取り、構えた。


「ならば、父も楽しもう」



 その後、王宮では奇妙な噂が流れることになる。


 ヴァルトハイム公爵家の令嬢が、毎朝剣を振っているというのだ。


 七歳の、公爵令嬢が。


 お茶会に出れば完璧な礼儀で場を魅了し、パーティに出れば愛らしい笑顔で令嬢たちの憧れとなり——しかし翌朝の夜明けには木刀を手に、庭に立っているという。


 さらに奇妙なことに。


 あれほど第三王子との婚約を望んでいた令嬢が、最近こんな言葉を口にするという。


 殿下が強くなられましたら、考えます。


 クロード第三王子がその言葉を聞いた時、どんな顔をしたか。


 それを知る者は、まだ少ない。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ