第1話 庭園の転倒と、記憶の奔流
王宮の庭園は、いつ来ても美しかった。
薔薇の生け垣が幾重にも連なり、石畳の小径に白い花びらが舞い落ちる。噴水の水音が耳に心地よく、春の陽光は令嬢の白金の髪を柔らかく照らしていた。
アリシア・フォン・ヴァルトハイム公爵令嬢、七歳。
今この瞬間、彼女は世界で最も幸福な少女であった。
「アリシア嬢、足元に気をつけてください。先日の雨で石畳が」
「大丈夫ですわ、クロード殿下。わたくしはそれほど」
ぱしゃ、と水溜まりを踏んだ。
次の瞬間には空が見えていた。
石畳の冷たさが後頭部を打つ。衝撃よりも先に、何か巨大なものが頭の中で弾けた。
水が器に溢れるように。
堰が崩れるように。
七年分の記憶の隙間に、別の七十年分が流れ込んでくる。
刀の、重さ。
血の、匂い。
師の、声。腰が高い。死にたいか。
満天の星の下、道場で一人素振りをする夜の、充足感。
「アリシア嬢!」
声が遠い。
「人を呼びます、今すぐ」
遠くなる。
アリシア——否、かつて別の名前で呼ばれた女は、冷たい石畳の上で静かに目を閉じた。
七十年分の記憶が、一つに、なった。
目を開けた時、そこには十歳の少年が顔を真っ青にして覗き込んでいた。
亜麻色の髪。灰色の瞳。均整の取れた顔立ち。この国の第三王子、クロード・アルベール・レオニウス。天才と名高く、弓術も剣術も飛びぬけた才を持ち、学業においては既に一流の学者と互角の議論ができると聞く。
アリシアはゆっくりと上体を起こし、彼を観察した。
……弱い。
その一言が、頭に浮かんだ。
否、正確に言えば——まだ強くなれる素材ではあるが、今は弱い。
腰が据わっていない。重心が高い。焦りで呼吸が乱れている。あの体格で刀を持てば、力任せの大振りになる。
「アリシア嬢、聞こえますか。頭を打ちましたよね、すぐに医師を」
「問題ありません、殿下」
アリシアは立ち上がった。ドレスについた泥を手で払い、乱れた髪を整え、完璧な笑顔を作る。七年間公爵令嬢として叩き込まれた所作が、今この瞬間に役立った。
「本当に? 転んで随分長く」
「少々、夢を見ておりましたわ」
夢。そう、夢のようなものだ。
七十年かけて積み上げた、剣の夢。
「……顔色が変わりましたね」
クロード王子は首を傾げた。観察眼は確かにある、とアリシアは思った。
「そうかもしれません」
アリシアは静かに、前世の記憶を整理した。
自分は武士の家に生まれた女だった。女であることを理由に道場に入れてもらえず、父の寝室から木刀を盗み、十年かけて独学で剣の基礎を固めた。師に出会い、本物の剣を学び、真剣を握り、そして——人を斬った。
幕末の動乱の中で、幾度も。
七十二歳で大往生するその日まで、剣を手放さなかった。
なのに今世では、お茶会でスコーンを食べて、殿下の婚約者として微笑んで……。
アリシアは空を見上げた。
青い空だった。
前世の記憶が戻る前、自分はこの少年と結婚したかったのだ。それはよく分かる。容姿は端麗、頭脳は明晰、王族の中でも破格の才能を持つと評判の殿下。七歳の令嬢が憧れるには十分すぎる存在だ。
しかし今は——。
「殿下」
「はい」
「殿下は剣術の稽古を、週に何度なさいますか」
唐突な問いに、クロード王子は瞬きをした。
「……週三日ほどです。王族としては多い方かと」
「左様でしたか」
週三日。
前世の自分は、風雨の日も、熱が出た日も、一日として刀を握らなかった日はなかった。
弱い、とは思わない。この年齢で週三日ならば十分に努力家だ。
ただ——今の自分と、釣り合わない。
「殿下は今後も、週三日のご予定で?」
「何故そのような……まあ、おそらくは。公務もありますし、学業もありますので」
「そうですか」
アリシアは微笑んだ。公爵令嬢として完璧な、愛らしい微笑みで。
婚約は、考え直す必要がありますわね。
その夜、アリシア・フォン・ヴァルトハイムは父の書斎を訪ねた。
ヴィクトール・フォン・ヴァルトハイム公爵。この国で最も武に近い貴族と呼ばれる男で、その体躯は熊を想起させた。娘には甘く、執務机の向こうで書類を捌きながら、アリシアが入ってきた瞬間に顔を綻ばせる。
「アリシア。どうした、こんな夜に」
「父上、一つお願いがございます」
「なんでも言いなさい」
アリシアはスカートの裾を持ち、優雅に礼をした。完璧な令嬢として。
「剣術の稽古をつけていただきたいのです」
沈黙。
公爵は書類から顔を上げた。
「……もう一度言いなさい」
「剣術の稽古を。できればすぐに。明日からでも」
「アリシア、お前は公爵令嬢で」
「存じております」
「七歳で」
「存じております」
「先週まで馬上の礼の練習をしていた」
「存じております」
アリシアは父の目をまっすぐに見た。今世の記憶にある父は、優しく、厳しく、娘を心から愛している。しかし前世の記憶の中にいる師は、もっと怖かった。こんな目線では動じない。
「……何故急に」
「本日庭園で転びまして」
「それは聞いた。頭を打ったと」
「夢を見たのです。刀を振る夢を」
公爵は長い沈黙の後、大きく息を吐いた。
「……分かった」
「本当に?」
「ただし、最初は木刀だ。それで基礎を見てから判断する。それと」
父は眉を寄せた。
「クロード殿下との婚約は、お前が望んだことだ。それは——」
「それはまた別の話です」
アリシアは微笑んだ。
「殿下が強くなれば、考えます」
「……何を言っているんだ、お前は」
「父上も、本当は分かっておいでなのでは? 弱い男に、娘は渡せないと」
公爵は何とも言えない表情をした。
やがて、ゆっくりと笑った。
「明日の夜明けに中庭に来なさい。付き合おう」
翌朝、夜明けの光の中。
アリシアは初めて木刀を握った——今世では、初めて。
前世の七十年分の記憶が、指先に宿っている。
構えを取る。腰を落とし、重心を定め、息を整える。
父が目を見開いた。
「アリシア……その構えは」
「おかしいですか」
「いや……いや、そんなことは」
公爵は口の中で何かを呟いた。その目に、見たことのない光が宿る。
アリシアは木刀を振った。
一振り。
ただそれだけで、朝の冷気が切れた。
風を切る音が、庭に響いた。
公爵は長い沈黙の後、静かに言った。
「……もう一度、振りなさい」
アリシアは振った。
また振った。
何度でも振った。
前世の記憶の中の師が言っていた言葉が、耳の奥で蘇る。
剣とは、生き様だ。強く生きたければ、強く振れ。
「父上」
「なんだ」
「楽しいですわ」
アリシアは笑った。
令嬢の微笑みではなく、何か別のもの——剣士が勝負の前に浮かべるような、晴れ渡った笑みで。
ヴィクトール公爵は娘の顔を見て、ひと呼吸置いた後、笑った。
「そうか」
彼は書斎から持ってきたもう一本の木刀を手に取り、構えた。
「ならば、父も楽しもう」
その後、王宮では奇妙な噂が流れることになる。
ヴァルトハイム公爵家の令嬢が、毎朝剣を振っているというのだ。
七歳の、公爵令嬢が。
お茶会に出れば完璧な礼儀で場を魅了し、パーティに出れば愛らしい笑顔で令嬢たちの憧れとなり——しかし翌朝の夜明けには木刀を手に、庭に立っているという。
さらに奇妙なことに。
あれほど第三王子との婚約を望んでいた令嬢が、最近こんな言葉を口にするという。
殿下が強くなられましたら、考えます。
クロード第三王子がその言葉を聞いた時、どんな顔をしたか。
それを知る者は、まだ少ない。




